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令和の大人たちから見た平成の大人たち

生真面目きまじめな子どもだった。というより語源が好きな子どもだった。

「なぜこれは魚というのか?」
「なぜこれは服というのか?」
「なぜこれは家というのか?」

幼稚園児の頃などこの世の全てに対して問いただしていたような気がする。おそらく最初は語源が好きだったのだ。その言葉が持つ由来やこじつけなどを聞くのが楽しかった。

しかし次第に僕は「すべての語源を知らないと言葉というものは使ってはならない」と勘違いし始めた。こうなると不自由で困り果てることになる。ほとんどの言葉が使えなくなってしまうので思い悩んだ。

そのうち語源を聞いたとしても大人ですら、なかなか答えられないという観点から、「別に語源を知らなくても良いのだな」という地点に落ち着いた。

当時はネットもなかったので答えられる大人が少なかったのだと思う。ただ、ほとんどの大人が「分からない」ではなくて「いいから食べなさい!」や「魚だから魚なの!」という微妙に怒りを伴う回答だった。

僕はだんだんと「語源を聞く行為はマナー違反なのだな」という解釈になっていった。
振り返れば僕がウザかったのだろうけど、そんなに怒らなくても良かったのではないだろうか。平成初期の大人たちは、今の大人よりもストレスフルだったのかもしれない。

あの頃の大人たちは今の五十代から六十代だろうか。彼らが三十代だった頃と比べると、今の三十代である僕たちはどうにも違う。

令和の大人からすると、平成の大人は責任の量が多かった気がする。別に語源が答えられないぐらい良いと思う。今の僕たちなら「語源?分からん。ちょい待ち」と言って検索する。

僕たち令和の大人たちは「分からないこと」なんて、恥でも何でもないと思っている価値観だ。調べればそれで済む。しかし彼ら平成の大人たちは『知識量の少なさ=未熟さ』という節があった。

生まれたときからネットのある世代をデジタルネイティブと呼ぶらしい。今の中高生生ぐらいは完全にそうだろう。中学生なんて2008年生まれだ。物心つく頃にはiPhone5が発売されている。

僕たち三十代はデジタルネイティブではないが、成人する頃にはバキバキのネット社会だった。ITと共に成長した。デジタル大人だ。平成の大人と令和の大人はやはり違う。良いも悪いもないが。

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