誰かがやらないといけないこと
言うまでもなく、生命をいただいて生きている。極端な食事コントロールを行なっていない限り、みんな魚や肉や野菜を食べていると思う。疑う余地なく、僕たちは元々あった生命を殺し、栄養素にしている。
都会で暮らしていると「食卓までの処理を行い、食べ物と化したそれを口に運ぶだけ」というひとがほとんどだと思う。
釣った魚をさばいたりする経験もなかなかできないし、それこそ豚や牛を殺すことなんて映像すら見たことないひとも多い。
だけども誰かがやっている。どこかの誰かがやってくれているから僕たちは吉野家に入ることができる。吉野家があり続けるには、誰かがやらないとならないのだ。
今読んでいるロシア人の戦争の本に「誰かが牛を殺さなければいけないように、誰かがナチを撃たないといけない」と書かれていた。
ナチは極端な話だが、日々の暮らしの中にも「誰かがやらないといけないこと」が溢れている。みんなが嫌がるような仕事とも言えるし、放ったおいたら代わりは現れるのだが、マストな以上はその代わりを待たなくてはいけない。
誰かがやらないといけないものでこの世はできている。コンビニも働くひとがいないと、ゼロ店舗になる。政治家もいないと、国がなくなる。
当たり前になったインフラに囲まれて生きているのだけど、それは全部「誰かがやっている」から成立している。
いきなりその「誰か」がいなくなってしまうと大変だ。それらがなくなってしまう。
コンビニや国はありえないだろうが、バンドや仕事なんかは起こりうる。バンドはいきなりなくなるし、会社もいきなり潰れる。
なくなると、多くのひとが慌てふためく。なんだか超常的なことが起きたように感じるひともいる。「そんなことがあるなんて……」という嘆き文句を吐く。
そうならないよう、時おり「そのメリットがどう運ばれてきているか」ということを考えておきたい。
いつも「メシうめー!」と思って食べているわけだが、「このうまさというメリットが、ここまでどう運ばれてきているか」ということになる。
このコンビニというシステム、物流。国というもの、道路や法や国営の諸々、仕事や楽曲。
僕たちの目の前には、いつもメリットという終着だけがいきなり現れる。そこまでの過程を知ることはほとんどない。少し調べれば、考えれば分かるけど、それはあまりしない。
たまにプロセスを想像する癖があるだけで、なくなったときにドタバタしにくくなる。作られるまでが分かっていれば、壊れることもそんなに不可思議なこととは思わなくなる。
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