"平和”という言葉についての私感

長崎市長がイスラエルを招待せず、G7が欠席という結果になったが本当に英断だった。毅然と”平和”を貫く長崎市の姿には励まされるが、広島も背負うこの”平和”というやつを一考してみたい。

右寄りの立場からみれば、この”平和”というやつは敗戦国としてアメリカから押し付けられた去勢でしかなく、非武装の名のもとに軍事力を強化させないためでしかない。爆弾落として焼け野原にしといて、決着ついたら、ここを平和を象徴する公園にしよう!とか、そもそもダブルスタンダードで矛盾しまくりだ。現在虐殺が行われているガザも決着がついたら、ガザ地区を平和の象徴として公園にして、記念碑や記念館たてて、ホテルとかつくって観光地にして、世界遺産認定とか受けてしまうかもしれない。つい現在のガザ地区の状況を広島に重ねてしまう。

戦後日本に”平和”を押し付けたのはG7のアメリカや欧米列強国だろ?自分たちがつくったともいえる”平和”の祭典に、虐殺国イスラエルを招待しなかったからって欠席とかなんなんだよ。平和の声を日本にあげさせたのはお前らだろ?筋通してよ!と思うが、ダブルスタンダードが得意な彼らには響かない。過去をさかのぼれば、資本主義や人権を叫んでいたフランス革命のときにおいても、インディアンは人じゃないから人権ないしOKみたいな感じで虐殺しまくり、植民地化してアメリカを建国している。アメリカなんて建国の時からダブルスタンダードでしかない。

ここまで書くと、欧米列強が卑劣だし、もう日本独立!軍事増強!日本会議!教育勅語!みたいな感じになる人もいるだろうが、私はこの敗者の烙印である”平和”を支持しています。過去に第一次世界大戦後のドイツも、敗戦国としてワイマール憲法という平和憲法をおしつけられている。20歳からの普通選挙を世界で初めて行っており、民主的な憲法だけど、世界恐慌で没落した中間層に支持されているヒトラーが選ばれてしまうという悲しい末路をたどっている憲法。しかし、芸術・文化の方面では良い時代だったらしく、ワイマール文化と括られるほど豊穣な文化をきずき、デザインの学校バウハウスができたりと文化人をめちゃめちゃ生み出している。現在の日本に置き換えると、この敗者の”平和”によってどんな文化が生まれたのかは私には決めがたいが、世界から評判のいい日本のアニメ文化とか、悪く言えば現実逃避的だけど、どこか牧歌的でこの”平和”と相関性があったっていいように思う。背景にいろいろとある”平和”だが、もう毅然と貫いちゃえば結果的にいい側面だってあるはずだ。

第二次世界大戦のときに裕福なユダヤ人は虐殺をのがれアメリカに移住している。この移住者たちもアメリカのシオニストコミュニティの一部を築いているんじゃないのかと勝手に推測する。過去に虐殺を逃れた人たちが現在は虐殺を支援するとか負の連鎖すぎる。この連鎖を断ち切ってくれるのは”平和”だと思うが、虐殺が起こっている前後に”平和”といっても言葉の悪用が多すぎて全く真逆の意味でつかわれたりしてる。虐殺が起こっている今こそ”平和”を唱えることが肝要だと思う。


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