嫌な思い出Part2
皆さんこんにちは。能力再生相談所、内匠です。
今日で子供が産まれて5か月となりました。毎日見てるんで変化に気づきづらいんですが、生まれたころからの写真を見返すと、もう全然顔つきとかかわってきてるんで本当に子供の成長ってのは速いんだなあとつくずく思わされる今日この頃です。一方で最近は、やたら子どもの事故についての報道を目にすることが多くて、これはもしかして子供を持ったことによるバイアスなのかしらと思いつつも、うちの子がそんなことに巻き込まれたら自分は平静でいられるのかなとなんとなく思ってしまいました。
それはさておき先日、子供の頃の嫌な思い出・・・国語の時間に音読で笑われた話を書きました。この話の「ケリ」がまだついてないんですが次の思い出をご紹介したいと思います。
厳密には「嫌な」ではなくて、なんとなくモヤモヤというか、残念というか、物足りないというか、そういう感じのものです、今回のは。
この欠落感ともいうべき思い出は実は今から2年前のちょうど今頃にメモってたもので、先日ご紹介したものよりも前に思い出したものですが、ずっとそのままお焚き上げもせずに放置していたものです。
私、小学校6年生になったときに家の近くに学校ができて(多分1年目か2年目ですかね)学区が変更となったことで6年生から新設の学校に通学することになったんです。
で、何を思ったか私、部活はそれまで水泳部だったのに、なぜか野球部に入ったんです。ちょっと記憶が今一つあいまいなところがあるんですが水泳部で試合に出られるようになったのは中学からで、小学校の時は試合には出してもらえるような力を示すことができなかったからか、それが野球部に入ろうと思ったことの動機の一つだったかもしれません。
もう一つは我々世代ってのは野球は遊びでよくやっていたので何となくできると思ってたというところもあります。友達ともそうだし、兄とも休日には二人野球をやってましたから、そこそこできる、と思っていた節があります。
ですが、本格的な野球ってやったことがなくって、6年生と言ってもトーシロー同然ということで、当然のごとく1年間(と言うか春から夏までですが)、球拾いで終わりました。同級生がピッチャーやったりしているのをただ声援を送る、という夏休みでしたね。
その現実を受け入れつつも、でも自分だってピッチャー出来る(と自分では思ってた…なぜなら兄との二人野球ではピッチャーするかバッターやるかしかないので)、そんな思いを抱いてもでもそれを表現することができなかった。どういう形でレギュラーが選抜されたのかは全く覚えていないけれど、でも学校の体力テストのソフトボール投げでも平均以下位の距離しか投げられないし、走るのも早くなかったし、野球部の顧問はクラスの担任だったから最初からたぶん使えるという目では見てくれてなかったんだろうなと思う。
いずれにしろ、野球部でやったのは練習最初のキャッチボールとノック、その後はただ球拾い(レギュラーの練習しているボールをね)。
ただ、その認められない忸怩たる思いをどうやってカバーしようとしたのか、それが全く思い出せないでいるわけです…別に野球の練習を家で頑張ったってことはない。素振りやった記憶もなければ投げ込みしたということもない。
でも自分の価値観である、自力開眼につながっているところは感じられる。だけど具体的に何したっていうのが全く思い出せないでいるわけです。
ああもどかしい。これも前回に引き続いての宿題になってしまいました。
また思い出したらご報告したいと思います。
ということで今日もご一読ありがとうございました。
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