幸せの基準

「自己評価、低くない?」

期末の評価面談、直属の上司からそう言われた。うちの会社は自分で評価を出すのだが、これではせっかく頑張っていて結果も出ているのにその姿勢が正当に評価されないよ、と。

確かに、思い返してみれば僕は自己評価が低い、というか、自分が立てている目標が高いのと、そこに一足飛びに辿り着こうとする思考が強い気がする。「いや、そこまで早く結論って出るもんじゃないよ。まずはしっかり現状を把握してから。答えを一気に求めに行かないこと。」と、データ分析を始めた頃、フィードバックをもらったことがある。この世界は幅の小さい一歩を何度も積み重ねてようやっと前進するものらしい。同じことを、僕は自分自身に対してできているだろうか。

もともと自己評価は高くないのに上ばっかり見ている性格だったから、相対比較と焦りの中でしか生きていなかった。大学生のとき、国際協力でこの先生きていくと決めていたから、同年代で起業したり、インターンで活躍していたりする人を見ると、どうしようもなく焦った。もうがむしゃらに動いて何者かになろうとしていた。だけれど、そうやって失うものもあった。上へ上へと登ろうとしてもキリがなく、どこかで自分で区切りをつけないといけないとこのとき教えてもらった。これからは、絶対比較とゆとりの中を歩んでいくんだ、と。

だけれど社会人、ビジネスの世界が僕に教えてくれたのはどうしようもなく相対比較と焦りの世界だった。競合に勝てなければ失注する、価値を出さなければ顧客には評価されない、上へ上へと登っていかなければ、自分のやりたいことは実現できない。他者と比較することは減ったけれど、高い目標と自分との戦いが幕を開けた。ある程度上手くやってきた気はするけれどこの社会が求める目標というやつはどうしようもなく厳しい。ときどき前進できていると感じることもできたが、思い返せばそれは減ってきたような気がする。そしてそれは、僕が何もしていなかったというよりかは、壁が高くなってばかりだったからなような。

だからもっと自分が頑張ればと思って努力をしたし、それは楽しかった。でも、いつからから同じ基準を他人にも求めだしたし、掲げたラインが自分を追い込んでいるときもしばしばある気がしている。

電気が来なくとも、やたら水漏れがしても、もともと期待値の低いこの国にそれを求めることはしない。今も一日一回停電しているが、前は一日に2回停電していた。以前は爆発音が聞こえることもしばしばだったが、ここ最近は聞くこともない。そして、そのことは十分満足に値する。

日本での当たり前が当たり前でないことに満足は覚えられるのに、自分や他者に対して期待をして落ち込んでしまうのはなぜなのだろう。もとの期待値が高いからなのだろうか。だとしたら、国が変わるのと同じくらい、人も同じくらい違うと考えると合点がいく。僕たちは同じ日本人だけれど、生まれた背景はそれぞれ劇的に違うだろうし、何なら外国の人のほうが近いと感じることもあるかも知れない。

少なくとも仕事の世界では、画一的な基準に向かって努力することが一番しっくりしている。人によるので関わり方は調整しないといけないと思うけれど。だけれど仕事以外の世界では、他者に対してミャンマーと同じくらいの期待値でいること、満足することと幸せの基準を下げることが良いのだと思う。電気が来ていること、水がくること、電波が安定していること、それ自体に幸せを覚えるくらいには、僕はもう途上国を十分経験してきていると思うから。


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