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25歳の誕生日

今年の4月13日、25歳になりました。

世の中的にアラサーと呼ばれる歳になることを職場の同僚から言われて初めて気づき、もうそんな歳かと思い、でも、これからもそんなに変わらない毎日をこれからも過ごすんだろうなと思い、思ったとおりに特にいつもと変わらない毎日を過ごしています。

だけれど、24歳のときの自分と、25歳の自分を比べると、それはそれはもう、同年代の誰よりも濃密な経験をしてきたんじゃないかと思っています。変化とは、淡い色を重ねるように徐々に徐々に起こるものなのかもしれません。それがどこで明確に起こったのかはわかりませんが、1年前、新社会人という新しいアイデンティティに胸を膨らませていたあのときの僕と、今、田辺の海沿いのカフェでカタカタnoteを書いている今の僕は、確かに違うと胸を張って言うことができます。

別に大したことではないかもしれないけれど、それは「僕の人生が前に進んだ」ということの大きな証左でした。

これから下に書くことは、だめでもだめでも、なにかに一生懸命になっていればきっと、前を向ける日がやってくるという、わりとありきたりな話です。どこかで聞いたようなありふれた話と思ってくれても構いません。ありふれた話でも、自分にとっては、今これを書くことが、重要だと思っているからです。

一年前の自分が読んだら喜ぶ姿を想像して書きます。同時に、もし昔の僕と同じに、何をやってもうまくいかない人が読んでくれている人たちの中にいたら、少しでも元気になっている姿を想像して書きます。


2021年の4月1日、僕は新社会人になりました。

勤務地は東京。都会はあまり好きではなかったけれど、新しい場所に住めることのワクワクの方が勝って、武蔵小山の小さなアパートから会社に通う日々がしばらく続きました。

仕事は思っていたよりもハードでした。どの新社会人もそうだと思いますが、それまで何かしら自分の中にあった自信というものは、ほとんどここで打ち砕かれてしまいます。上司の出している指示はほとんど理解できないし、締切までに資料はいつも仕上がらないし、自分に任せられた仕事も上司にほぼ巻き取ってもらうし、同期も優秀そうな人が揃っているし…

そんな毎日が続いていくと、自分がそこにいる意味がわからなくなってきて、ミスをするのが不安になって、任されるのも怖くなり、ビクビクしながら仕事をする日々が続きました。

土日は、学生のときに始めたケニアの活動があったので、そこに時間を費やしていました。昔始めたクラウドファンディングの資金はすべて一期目の活動に使い果たし、僕たちは二期目の活動資金を必要としていました。

卒業前、某クラウドファンディングのプラットフォームの運営会社から営業の電話がかかってきて、どうしようかと迷っていた僕はとりあえず話を聞き、継続のために実施すると決めました。

準備に時間を費やし、スタートしたのは5月頃。奇しくも、僕が正式に働き始めた日と全く同じでした。事前にコラボイベントやら、記事やら手伝っていただいて準備した甲斐もあり、目標だった30人を達成する結果に終わりました。並行して、助成金の申請をしてみたり、今後のプランを考えたり、応援してくれた人へのリターンや、やらないといけないことがたくさんあるなと、いろいろなものを背負い込みすぎたかなと、そんなふうに思う日々が増えました。

6月に差し掛かった頃、なにもない所で躓くことが増えました。家で夜遅くまでケニアの作業をしていて、何の前触れも無く涙が出たり、かと思えば笑えてきたり、朝起きると体が動かなくて、会社を休んだり、なんだか妙だなと思うことが増えました。

7月、月曜の朝起きると体が動かなくて、休みの一報を会社に入れました。何度も何度も同じ症状が続くので、おかしいと思って目黒の心療内科に連絡を入れて、走ったわけでもないのにずっと切れている息と、ふらふらな体で電車に乗り込みました。

医者の先生は、僕の状況について淡白に質問を重ねた後、「うつ病ですね」と言いました。そこまでまだ重くないと思うから、薬を飲んでとにかく休んでください、と。はじめに聞いたときはショックだったかもしれませんが、とにかくふらふらであまりその時のことは思い出せません。病院を出て、一階で上司に状況を報告し、診断書など、色々と手続きはありましたが、その日は一旦家に帰って休むことにしました。

次の日に起きても、その次の日に起きても、体はずっと重いままでした。一人で東京にいる意味もわからなくなり、とりあえず実家に帰ることにしました。母にも父にも自分の状況は伝えてあって、特に父は昔うつ病になっていたこともあり、親身になってくれていました。

歯を磨くにしても、ご飯を食べるにしても、起き上がるにしても、人はエネルギーを使うことを知りました。元気なときには気づかなかったことです。それぞれ1とか、2とか、3とか、微々たるものだとは思いますが、たしかにそこに使うエネルギーは存在していて、当時の自分にはそれすら残っていませんでした。

だから、もっぱら家にいてやることと言えば寝ることだけでした。なんとか起きて、なんとかご飯を食べて、なんとか薬を飲む日がしばらく続きました。

そんな日々が続くと少しずつ元気も出てきて、かなり疲れるけど外に買い物をいくこともできるようになったし、エネルギーの消費を気にしなくても起き上がれるようになりました。早く元気になるにはなるべく日の光にあたったほうが良いらしく、歩ける様になった頃、うだるような暑さの中、外を散歩することが増えました。

しばらくして、僕は職場に戻りました。不安だったけど、職場の皆さんは温かく迎えてくれました。夕方ころになってくるとめまいがしたり、その後もちょくちょく発作みたいに体が動かなくなったりすることもありましたが、何より元気な体で働けていることが嬉しかったのを覚えています。

ケニアの方は、働きながらの継続はできないと判断し、月額寄付の契約をすべて解除し、伴走してもらったファンドレイザーにも相談の上、寄付額の中から支払われる予定だったプラットフォームの利用料を自腹で払いました。すでにプロジェクトは走っていたので、現地のパートナーには次回以降の継続はできないが、すでに走っているものに関しては自分が活動費を払うことを約束し、納得してもらいました。

このときは本当に辛く、現地パートナーのケビンがずっと頑張ってきてくれていたのは自分が誰よりも知っていたのにそれを裏切ってしまったこと、応援してくれている人や心配してくれていた人たちにもすぐ報告をすべきだったけれども、その勇気を持てなかったことを、本当に後悔しています。

しばらくして、だいぶ体も慣れてきた頃、自分の恩師といっても過言ではない、今の僕の直属の上司と同じプロジェクトで仕事をする機会が回ってきました。振り返ると、このプロジェクトに自分は救われたと言っても過言ではないかもしれません。

カウンターの方含め、チームの熱量はとても高く、新規事業という難しい領域の中で世の中にサービスを広めようという意気込みに満ち溢れていて、上司の仕事ぶりも本当に勉強になることが多く、自分もケニアやカンボジアでそうだったように、能動的に動けることができるようになってきました。

年の瀬も迫ってきた11月頃、上司から「このプロジェクトのマネージャーをやってみないか」と打診を受けました。所謂PMです。プロジェクトの目標に向かい、戦略の策定や実行施策のやるやらない、チームメンバーの指示出しなどなど、全てを統括するポジションです。

正直少し不安もありました。また体が動かなくなるんじゃないか。またああなってしまったらどうしよう。だけれど、それまでずっと一緒にやってきたカウンターの方の力に自分がなれるならと、いつものように僕はYESと上司に伝えました。伝えてしまったと言ったほうが、当時の自分の心境をよく表せているかもしれません。

それから、ハードな毎日が続きました。前半よりはできることは増えたものの、新しいことの連続。一つできるようになったと思ったらまたできないことが山のようにでてきて、正直、力及ばずで迷惑をかけてしまうことも多々ありました。「また、あの時と同じか」と、ケニアで失敗した経験を思い出すこともありました。それでもくじけずに、土日は本を読み、平日は頭を使い、手を動かし、指先一本分でも力になれるよう、夢中になって何ができるかを考え続けました。

それでも、やはり世の中の壁というものはどうしようもないほどに高く、最終的には良い結果に終わることができませんでした。僕は悔しくて悔しくて、また同じ失敗をしてしまったと思えば思うほど、喪失感と虚無感で体は縛られ、苦しい思いをしました。

それでも時間は過ぎ、僕はまた新しく2件のプロジェクトをマネジメントすることになりました。今も僕はそのプロジェクトのPMとして働いています。そこで気づいたのは、あのときにできなかったことが今、できるようになっていること。

最初の頃は、怖気づいて先方の確認も上司にいちいち取っていたのに、自分ひとりでできるようになっていること。支援開始のミーティングで、目標値の設定ができるようになっていること。ほぼ自分ひとりで議論したいこととの設定、資料を作れていること。先方に質問をされても、自信をもって答えることができるようになっていること。先方からのメッセージが、上司ではなく僕に直で来るようになったこと。あの時上司がしていたように、一つの論点を議論できるようになっていること。

「できない」で溢れていた僕の気持ちが、「できた」で少しずつ、少しずつ上塗りされてきていることに、最近ようやっと気が付きました。

今日、ビジネス書を一冊読んでいました。それは「What」よりも「Why」を使って考える、つまり前提や背景を疑ってかかることが質の高いインプットにつながると主張している本で、新しい発見も確かにありましたが、ほとんどどこかで見たような内容が中身を占めていました。

既視感を持ちながら読み進めると、末尾にこんなことが書いてありました。「仕事の中で、Why型とWhat型の区別ができるようになっているのであれば、あなたはもう立派なWhy型人間と言っても過言ではない」と。

それは今まさに自分が仕事をしていて感じ始めていたことと同じで、どこかで読んだことのある内容も、WhyとWhatの識別感覚も、無力感の中で必死にあがいたあのプロジェクトでの経験がもたらしてくれたものでした。

今週の水曜日、僕は25歳になりました。歳を取ることというのは、歳をとればとるほどその大切さも、意味もどんどん薄れていくのだなと、去年くらいから感じていました。だけれど、今年の4月13日は少し違っていました。

うちの会社では、四半期ごとにMVPの発表があります。ただ4月だけは少し特別で、前年に入社した新卒の中でのMVPの発表があります。

去年は東京の本社で一期生の先輩がMVPのスピーチをしているのを見ていましたが、僕は和歌山に転勤になり、白浜で発表の様子を見ていました。

MVPを知らせる真っ白なスライドに、赤字で自分の文字が書いてあるスライドが表示された時、なんてことのない僕の誕生日が特別になりました。

僕は、新卒の中でMVPに選ばれました。

体を壊しても、全然できない毎日の中でも、たしかに自分は前に進んでいるよと、その賞に背中を押してもらえた気がしました。


とは言っても、賞が僕のできないを解決してくれるわけではありません。今もできないことはたくさんあると思っているし、やらないといけないことはたくさんあるし、自分が価値を届けたいと思っている人に本当に価値を届ける日もまだまだ遠いなと思っています。

「自分の人生が前に進んでいるという感覚はありますか?」

僕の上司が、1on1のときに聞いてくれた質問です。この問いは、今後死ぬまで僕の中で問い続ける宝物になっていると思います。

自分の人生は前に進んでいるのか。24歳、不器用に、贅沢に何でも始めようとして失敗したあの時から。PMを任せられても壁にぶつかりっぱなしだったあのときから。できないに苛まれて、体を壊したあの時から。

その答えをくれたのが、4月13日でした。大丈夫、大丈夫、ちょっとずつだけれど、前に進んでいるよと、ぼくの生まれた日が教えてくれました。


「自分の人生が前に進んでいるのか?」を問うことを忘れてしまったら、きっと僕はまた負のループに陥ってしまうと思います。

この一年、僕が学んだ重要なことは、失敗に挫けず思考することです。

たとえ今はできなくても、いつかできると信じて、淡白に、真摯に失敗を受け止め次に対する打ち手を考えること、なぜできなかったのか深く思考し、次の行動を起こすこと。

僕は上司や周りの人から、思考力が深いと言われることが結構ありました。それは、端的に言えば常識や当たり前を疑ってかかり、いろいろな方向から考えることです。

きっとそれは、僕がたくさんの国の人たちにお世話になったからだと思います。これまで旅した17ヶ国、何人と関わったかは覚えていませんが、今までの常識なんて微塵も通用しない文化や考え方の連続でした。特に、ケニアの農村部なんて毎日毎日そんなことの連続でした。

僕がきっと、胸を張って強みだと言える唯一無二のアイデンティティはきっとここにあるんだと思います。そしてそれは、僕が大好きな世界からいただいたものだったんだと思います。

今はまだまだ力不足ですが、考えて考えて考えて、また青い空の赤土の上で、今度は本当に自分が価値を届けられる日を想像して、恩返しができる日を想像して、明日からも頑張っていきたいと思います。

このnoteも、ケニアのこともあり、書こうかどうか、ストップしたとちゃんと伝えるのが怖くて、書こうかどうか迷いました。でも、意を決してしっかりと、責任持ってここでお伝えしようと思い、したためます。

これからも、これが正しいことなんだと、思える感覚をたいせつに、たいせつにしていきます。それがきっと、「自分の人生は前に進んでいるか?」の答えになると思うから。


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