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ベニクラゲの少年(小説)


月野光希が「人魚浜」でその少年と会ったのは、高校2年の秋、満月の夜だった。


光希はその日、高校の進路面談を終えた後、あてもなく自転車を漕いでいた。

学校の周辺は住宅地、そこを抜けた先は広い国道で、道沿いにホームセンターや大型書店などが並んでいる。

進路面談に来てくれた父は、慌ただしく仕事に戻っていった。母は、ここしばらく家に寄りついていない。家に帰ってもどうせ誰もいないだろう。

光希は国道沿いの大型書店で時間を潰した。店内には高校の同級生や先輩の姿をちらほら見かける。他に行くところもないーー彼が生まれた街は、電車で20分もいけば大都市がある、平凡で娯楽の少ない地方都市だ。


書店を出た時には、橙色の夕焼け空はどっぷりと暗い夜空に変わっていた。

光希は店を出て5分ほど国道を走った。海が近づいてくると、彼の鼻を潮の匂いがくすぐる。冷たい海風が頬を切りつけ、制服の上から着たウインドブレーカーを揺らす中、さらに5分ほど自転車を漕ぐと、堤防の上に出た。

国道からそう遠くないその海岸の正式な名前は、八丘海岸という名前らしいが、この辺の人は皆「人魚浜」と呼んでいる。

昼間は潮干狩り客や犬の散歩をする人、釣り人が多く訪れるこの海岸は「夜になると人魚が出る」という噂がまことしやかに囁かれているからだ。その噂は割と有名で、オカルト情報の掲示板なんかにも書かれていて、時折物好きな人たちが夜の浜で肝試しをしているのを見かける。

今日の浜には誰もいなかったが、海は妙に騒がしかった。強い風が吹き続けていて、干潮に近い水位のはずなのに波は高い。漆黒の海面に、白い波が幾重にもたち、水泡が幾つも浮かんでいる様は、少し不気味だった。

光希は堤防に自転車を止めて、砂浜へと下りた。流木やゴミが散乱した浜を、堤防に沿うようにして歩く。

光希は海を眺めるのが好きだ。昼間の浜には、人間だけでなく魚やカニや海鳥、貝など色々な生き物がいるからだ。子供の頃からこの浜に来てはそうした生き物を観察するのに熱中していた。魚やカニ、海鳥の名前を一つ覚えるたびに、世界が広がっていくかのように感じていた。

高校に通い始めてからは、あまりここに来る時間もないが、時々こうして、自転車を漕いで海を眺めている。夕方の、夕焼けを反射して橙色になった海も、日没後まるで夜の闇が全て飲み込んでしまったかのように、静まり返る海も、全て好きだ。

不意に、風が弱くなった。不気味なくらい騒がしかった波が少し大人しくなったその時ーーすぐ近くで、誰かの荒い息遣いの音を聞き、光希はビクッと身を硬くした。

月明かりの中目を凝らすと、50メートルほど先の地面に、海の方を向いてへたり込んでいる人間が見えた。波の音と、堤防から伸びる影に隠れて気づかなかったようだ。

深い皺が刻まれた額、白い髪、曲がった背中。そこにいたのは7-80代くらいの男だった。散歩をしていて、具合でも悪くなったのだろうか。声をかけようとして、光希はギョッとして足を止めた。

老人の下半身が、暗い青色の、ゼリーのような異様な物体に覆われていたのに気づいたからだ。

立ちすくんでしばらく眺めていると、そのゼリーのような物体は、老人の腰から腹、胸へとどんどん侵食していき、とうとう頭まで完全に覆ってしまった。

「な、なんだ……?」

老人の身体は数分間、ゼリーの中に埋もれていた。光希はそれを呆然と見つめていた。

止んでいた風が、徐々に強くなってくる。風に流された雲が月を隠し、少し暗くなった頃、老人はゼリーの中から顔を出した。だがその顔はーー皺だらけの老人ではなく、若々しい少年のものになっていた。


光希は息を呑んだ。

少年は、苦しそうに咳き込んだ後、睨みつけるような視線を海に向けた。暗い青色の髪に、病的なまでに青白い肌。まるで幽霊みたいだ、と光希は思った。

その時、少年はぐるんと首を90度回転させ、光希の方を見た。

「ひいっ」
光希は小さな悲鳴を上げて後ずさる。

「待ってくれ! 君……しばらくそこに立っててくれないか?」
若々しい、よく通る声にそう言われ、光希は立ちすくんだ。

「今の僕はこんな状況だ。人魚に襲われたらひとたまりもない。お願いだ、そこにいてくれ」
「に、人魚?」
「やつらは僕らを食べる。好物なんだ。でも人間のことは恐れている。この浜では昔、人間が人魚を狩っていたからね。だから、いてくれるだけで人魚は寄りつかないはずだ」

風が再び強くなるのに呼応して、波面も荒くなる。水面の泡は波飛沫にしては妙に多く、気色が悪いほどだ。波の音や風の音にしては不気味な、低い音も時折聞こえてくる。


光希は震えながら、奇怪な少年の身体を覆っていた物体がゆっくりと溶け、砂浜に染み込んでいくのをただ眺めていた。

少年は砂浜から腰を上げた。少年はひょろっとした痩せ型で、青白い肌も相まって、やはり幽霊の類に見える。

「僕は幽霊じゃないよ。ほら、ちゃんと足も生えてるし」
「でも……人間では、ないんだろう?」
光希は思い切ってそう尋ねた。まだ身体は少し震えていたが、恐怖よりも、好奇心が優ったのだ。

「まあね。人間は『老い』を迎えたら、もう若くはならないだろう。僕は何回でも若い姿に戻れる」

少年は頭の上で手を組むと、ゆっくりと少年の方に歩いてきた。横に並ぶと、少年は光希の肩くらいの背しかない。

「この町も一緒だな。昔は賑やかな港町だったけど、もうその頃には戻れない」
「昔からずっと、ここに住んでいるのか」
「うん。この浜にやってくる人と話すのが好きでね。気づいたら長いことここにいるな」
「人間と……やっぱりそれは、人魚に食われないためか? 敵の敵は味方、みたいな」

光希の言葉に、少年は目を丸くした後、口を開けて笑った。
「確かに、言われてみたらそうだな。でもそこまで考えてたわけじゃないよ。単に、人間と話すのが好きなだけ」

でも夜にこの浜でいる人に話しかけてもだいたい逃げられるけどなあ、と言うと、少年は真面目な顔になって光希に向き直った。

「言い忘れるところだった。さっきは、逃げないでいてくれて、ありがとう」
「い、いや……俺は……足がすくんで逃げられなかっただけだ」
「それでもいいよ。おかげで助かった。ありがとう。何かお礼がしたいんだが」

少年の目は髪と同じ暗い青で、ガラス玉のようにキラキラとしていた。その目で見つめられて、光希は少しドギマギした。

「お礼って言われてもな...…」
「人間ならこういう時はお金か物を渡すんだろうけど、僕には何もなくて」

僕の肉を食わせてくれとかはやめてくれよ、と言い、少年はケラケラと笑った。

「食べたら800年生きられる人魚じゃあるまいし、僕みたいなの食べてもお腹を壊すだけだ」
「人魚も、本当にいるんだな」
「何度も見たことあるよ。でもアレは、人魚というより人面魚だな」

それからしばらく、光希は少年を質問攻めにした。人魚のこと、少年自身のこと。食べ物は何を食べているのか。『若返り』は何回でもできるのか。仲間はいるのか。

少年は、その質問一つ一つに誠実に答えてくれた。好物はこの浜でよく取れるあさり、若返りは今まで5回くらいしかしていないが何回でもできる。

生まれたばかりの頃は大勢仲間に囲まれていたが、皆幼いうちに人魚に食われ、自身も人魚から逃れて放浪するうちにこの浜についたことまで教えてくれた。

不気味さよりも、珍しい生き物を見つけた時のような興奮が、光希の中にはあった。一見すると普通の少年のように見え、言葉も普通に通じることも、光希の恐怖心を和らげていた。

「今日はもう遅いから、帰った方がいいよ。お父さんやお母さんも心配するだろう。明日のお昼にでもまたおいで」
少年は少し疲れたようにそう言うと、堤防にもたれかかった。

「親は……別に心配しないよ。それに、明日も学校があるから、夕方しかここには来られない」

その言葉に、少年は目を開けて光希の顔を見たが、

「……そうかい。夕方になっても、別に構わないよ。待ってるから」

とだけ言うと、再び目を閉じた。



☆  ☆  ☆


それからしばらく、光希は放課後になると人魚浜に向かうことが習慣になった。


少年はいつもいるわけではなく、週に何回も会う日があれば、2週間くらい姿を見ない日もあった。自販機で買ったコーラを一緒に飲んだり、浜に落ちている貝殻を拾ったりしながら、いろんなことを話した。


「なんていうか、聞けば聞くほど、ベニクラゲみたいなライフサイクルだよな、お前」

ある日の夕方も、光希と少年は、堤防に腰掛けて、たわいもないことを話していた。

「ベニクラゲ?」

光希はスマホでベニクラゲの解説が載ったWEBページを開いて見せた。ベニクラゲは、ポリープ状の幼体から成体になった後、再び幼体に戻ることができることが知られている。

「本当だ。僕の仲間かもしれないな」
「姿は全然違うけどな」
「それにしても、みつきは海の生き物に詳しいな。鳥の名前とかもずいぶん教わったよ」
「昔から海で遊ぶのが好きで、海で見つけた生き物の名前を図鑑でよく調べてたから。あとは、水族館に行ったりするのが好きだったから」

「将来も、そういうことを勉強するのかい? 前に、浪花大学っていう大学に行くかもって話をしていたじゃないか」

少年は、光希が話した細かいことまでよく覚えていた。自分よりはずっと長く生きているらしいのにすごいと、光希は密かに思っていた。

「ああ……浪花大学は、電車で20分くらいで行けるからな。でも浪花大学には、海洋学を学べるところはないんだ。学べるところは、どこもここからだいぶ遠くの大学ばかりで」


少年は不思議そうに首を傾げた。夕陽に照らされた少年の肌はオレンジ色に染まっていて、目の青さをさらに引き立てていた。

「そうなのか。じゃあ浪花大学には、別のことを勉強しに行くのか」
「ああ」
「それでいいのかい?」

光希は砂浜に目線を落としながら、ポツポツと言葉を紡いだ。彼の青い瞳に見つめられると、何もかも話してしまいたくなる。

「なんというか……今の俺は、生き物が好きだけれど、大学生になってもずっと好きでいられるのかなって」

「しかも、この街を出て、遠く離れた場所に住んで。ああ、失敗したなあって思わないだろうかって。俺は...…失敗したくないんだ」


『あの子が大学に行くまでは』

これは両親が喧嘩した後、どちらかが決まって言う台詞だった。

大学に行くまでは別れない、という話のこともあったし、大学生になれば独り立ちするのだから養育費はいらないでしょう、という話のこともあった。

幼い光希が布団に入った後繰り返される言葉を、聞かなかったふりをずっとしていた。けれど、脳裏にはしっかりとこびりついてしまった。

進路面談で「進路選択は大事だからちゃんと考えろよ」と言った高校の先生は、果たしてどこまで真剣に光希の人生を想って言ったのだろうか。

光希にとって、大学は、一度通ったら二度と後ろには戻れない、分岐点のように感じていた。


「大丈夫かい、顔色が、あまり良くないようだけど」

少年の声で、光希は我にかえった。少年は俯いて砂浜をじっと眺めていた光希を心配そうに覗き込んでいた。

「……ああ、大丈夫。俺もさ、お前みたいに何度でも若返って人生やり直せたらいいのにな」

そうしたら、失敗することなんて怖くないのに。光希は無理につくった明るい声で、そう言った。

いつの間にか、橙色の夕焼け空は、濃い藍色の夜空へと変わっていた。少年は堤防からぴょん、と砂浜へ飛び降りると、砂浜で何かを探し始めた。


「何してるんだ?」
「最近、この辺りで変わった貝がらを見かけて、みつきに見せたいと思ってたんだ」

光希も堤防から砂浜に降りると、少年の横に並んで貝殻を探した。といっても、彼が指差したあたりは特にゴミがひどく散乱していて、貝らしきものは見当たらない。

「あ、あった、これだ」
少年は砂浜から何かを拾い上げようと腕を伸ばしたが、直後、「いてっ」と小さく悲鳴をあげた。

「どうした?」
「手を切ってしまったみたいだ。随分尖った貝殻だな」
「……多分それ、貝殻じゃなくてプラスチックの破片だな。血とか出てないか? 俺絆創膏持ってるから……」

そう言いかけて、光希は息を呑んだ。少年の手、親指と人差し指の間から、無色透明な液体がどろどろと溢れ出ているのを目にしたからだ。

「おま、それ、血か?」

光希は上擦った声で少年に尋ねた。少年は傷ついたに目をやると、「ああ。結構ざっくりいってしまったな」と抑揚のない声で言った。

「何でそんな落ち着いてるんだよ。絆創膏じゃ間に合わん。止血するからじっとしてろ」

光希は堤防の上に置いた鞄からタオルを取り出し、少年の手の傷口を抑えた。その時、彼の手の甲にいくつもの傷跡があることに気づいた。

「この傷は……」
「ああ、『若返り』をしても、老化が原因じゃない怪我や傷は、完全に治るわけじゃない。この傷は、人魚を追い払った時の傷、これは……岸壁から海に飛び込んだ人を、止めようとした時の傷だな」

光希は少年の顔に視線を戻した。自分の手を見つめる彼の表情には、ある種の諦念が伺えた。

「若返って何度も人生をやり直せても、繰り返した分だけ傷が増えるだけさ」

それに、と人ではない少年は付け加えた。

「今まで色んな人間と出会って、話してきたけれど、何かしら皆、『失敗』を抱えていたよ」

「でも、どんなに過去、『失敗』していたとしても、今を生きたいように生きている人間は、少なくとも楽しそうな顔をしていたよ」

みつきもそう生きれるといいな、と言う少年の瞳は、最初に出会った時と同じ、ガラス玉のような輝きをたたえていた。


✴︎  ✴︎  ✴︎


ベニクラゲの少年と最初に会った夜から、1年と数ヶ月が経ったある早朝。

光希は、もやがかかったかのように薄暗い人魚浜にいた。

「お、ここ数ヶ月、見かけないと思ったら。こんな朝早くにどうしたんだい」

彼ーーベニクラゲの少年は、堤防の上に腰掛けて、足をぶらぶらさせていた。光希が左手で大きなスーツケースを持っているのに気づくと「どこかへお出かけかい?」と言って首を傾げた。

「ああ。今日は大学で入寮手続きがあるんだ。色々落ち着くまで、こっちには帰って来れそうにない」

もう帰ってこないかもしれないけど、と付け足すと、彼は目を丸くした。

「その、これから行く大学っていうのは」
「遠いところにある大学だよ。ここから新幹線と電車を乗り継いで行かないといけない」

光希は言葉を切った。朝凪の人魚浜は、驚くほど静かだ。両親と、生まれた街を振り切って旅立とうとする光希の頬を、微かな風がなでる。

「でも、自然豊かで、生き物を研究するにはちょうどいいところだ。寮から歩いて10分くらいのところに海があって、いつでも行けるし……これ、やるよ。この辺りでは珍しい貝だ」

光希はポケットから小さな巻貝の貝殻を取り出し、少年の白い手の上にのせた。

少年はひとしきり貝殻を眺めた後、光希の顔に目線を戻した。

「みつき」
「ん?」

「今の君は、すごく楽しそうな顔をしているよ」


そう言うと、ベニクラゲの少年は、白い歯をニイッと出して笑った。


地平線から顔を出しかかっていた太陽がついに顔を出すと、もやのような闇は晴れ、眩しい朝日が差し込んでくる。

朝日に照らされた彼の顔は、透き通るような白い肌、頬や鼻にふんわりと桃色がさしていた。その瑞々しい肌は、何百年も生きているようにはとても見えず、美しかった。

「……お前、そんな顔だったっけ」
「ん? 僕はずっと、この顔だよ」
君がいなくなっても、ずっとね、と言うと、彼は微笑んだ。



光希は人魚浜に背を向けて、駅へと向かった。

その途中で、頭上を、ずきんを被ったかのように頭の黒い海鳥が飛んでいった。あれは夏羽のユリカモメ、もうすぐこの浜から北へと旅立っていく鳥だ。

海の方へと飛んでいったその鳥を目で追うと、堤防の上に座って、こちらをじっと見ている少年のシルエットが見えた。

光希は彼に向かって片手を軽く上げた。



遠くに見えるその影は、いつまでもこちらをじっと見つめていた。



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カバー写真は全然ベニクラゲの画像ではなく、京都水族館のくらげ水槽で撮った写真です(とらつぐみ・鵺)