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「肴荒らし」の会(小説)


大学生になったら皆、気の合う仲間と飲み会をするものだと、昔の俺は思っていた。

だから4年前、関西の大学に進学して、入部した旅行サークルの忘年会で初めて飲み会を経験した時、少し興奮していた。
大学の近くにあるチェーンの個室居酒屋、飲み放題3000円の店。カラオケボックスよりもやや手狭な個室に総勢10名。店内には他の学生グループもいるのか騒がしく、個室の中でも2つ隣の人の声を聞き取るのもやっとだ。

俺の向かい側、個室の右奥に陣取った女の先輩は、上回生と同期の酒と1回生のソフトドリンクのオーダーを手早く聞いていた。黒いシャツにややウエーブのかかった黒髪、シルバーのネックレス、という出で立ちの彼女は、店員に12人分・・・・の飲み物を注文した。

しばらくして飲み物が来て、幹事の男の先輩が乾杯の音頭を取ると、彼女は自分の前に並べられた、ビールと日本酒の冷やとグラスワインをぐびぐびと飲み始めた。

それも、ビールには唐揚げ、日本酒にはたこわさ、ワインにはトマトとアボカドのサラダを、という感じで合わせながら、面白いくらいに勢いよく、酒と料理を減らしていた。

 
その時俺は、まるでーー先輩の周りだけ別の時間が流れているかのうように感じた。
好きなだけ飲んで、好きなように食べる。
隣で楽しげに男の先輩と話す同期の女子に気を遣いながらひっそりと烏龍茶を飲んでいた俺にとって、テーブルの向かいにいた先輩は、大学生になって手に入れた「自由」そのものに見えた。

人生初のその飲み会が、それ以降その先輩ーー仁科牡丹から目が離せなくなったきっかけだった。
牡丹先輩は最初こそ話しかけにくかったが、話してみるとユーモアがあって優しくて、そして飲みっぷりはいつも頼もしくて、俺は彼女に憧れめいた感情を抱いていた。


それから4年後、大学を出て就職して以来連絡をとっていなかった牡丹先輩から、久しぶりに電話があった。その日は仕事納めで何かとバタバタしていて、午後11時過ぎに家に帰り、カップ麺を食べていた時に電話がかかってきた。
『三葉くん、久しぶり!もう仕事納めた?』
「お疲れ様です、仕事納めてさっきやっと帰ってきたとこです。このまま寝正月に突入ですね」

電話の向こうから、プシュ、というプルトップの音がした。
「あれ、飲んでるんですか先輩」
『これはただの烏龍茶。さっきまで忘年会で、散々呑んできたからーー三葉くんは今年から一人暮らしだっけ? 実家帰ったりしないの?』
「帰省ラッシュが今年はすごいっていうニュース見てそんな気失くしましたね。それに大晦日の1日前に仕事終わったんじゃどうにも……先輩はどうなんです?」

『……私もまあ、似たようなもんかな。忘年会したけど年末って感じが全然しなくて』
「うちは上司が潔癖というかカタい人なんで、忘年会はおろか歓迎会もやってないですね」
「ふーん、そうなんだ。うちは結構な頻度でやってるんだよね。でも隣の部署でクラスター起きたらしくて、大っぴらにしてないけど」

バレてもまあ、怒られるのは私じゃないけど、といつものめんどくさそうな声色でそう言った。

『それよりさ、正月暇なら、どっかご飯行かない? 三葉くんが好きな、野菜料理が美味しい店見つけて、そこ正月からでも開いてるみたいだから』
「本当ですか!? ぜひ行きたいです」
先輩とご飯に行くなんていつぶりだろう。俺は胸を弾ませた。

『あ、でも、三葉くんってお酒飲めないんだよね確か。最後にやった飲み会で、飲みすぎて潰れてなかった?』

覚えられてたか、と俺は苦笑いした。3年前、俺が成人した直後、例の疫病が流行り出す直前に行った東北旅行の最中のことだ。それ以降、旅行はもちろんのこと飲み会自体がめっきりなくなってしまったが。

「あれ以降、オンライン飲み会とか色々あって、恐る恐る家でお酒飲んでましたけど、やっぱ俺は酒飲まなくても別にいいなって」
牡丹先輩も飲み会来なくなったし、と俺は心の中で付け足した。先輩の飲みっぷりが見れない飲み会は、想像以上に物足りなかった。

『私あまりお酒飲めない人の感じって分からないんだけど、結構すぐ酔っちゃうの?』
「たとえば缶入りの度数がそんな高くない酎ハイとかでも、ちびちびじゃないと飲めなくて。ゴクゴクっと飲んじゃうと、すぐ心臓がバクバクしたりふわふわした気分になって気持ち悪くなるんですよ」

『そんなになんだ……度数高いやつももちろんダメ?』
「度数高いやつは結構きついんでそんなにグビグビ行けないので、そんなに気持ち悪くならないですけど、結局キャパを越えちゃったら……」

『なるほどね。でもさ、店とかでもノンアルのお酒置いてあったりするけど、種類少ないこともあるよね。ビールだけとか。ソフトドリンクでも、甘いのにあんまり合わない料理だなぁってことあったり』
「……そうなんですよね、まあ仕方ないですけど」

『いやいや、そこ諦めたらダメじゃん。こだわらないと』
酒のこととなると、先輩の声に熱がこもる。

『それならさ、うちの近所に、ノンアルのカクテルとか酎ハイ色々売ってる店あるんだけど、そこで買ってきて私の家で飲むのはどう?』
「先輩の家で、ですか?」

『前サークルの鍋パで来たことあるでしょ?炭酸系のが多いはずだからそうね、野菜の揚げ物を一緒に作って、それをアテに飲む、とかどう?』

☆ ☆ ☆

午後17時半、俺は家で余っていた野菜の入ったビニール袋片手に、俺の会社の最寄り駅から地下鉄で2駅いった駅に降り立った。

先輩が大学の頃から住むアパートはそこから10分ほど歩いた場所にある。そこまで大きくない駅だが、駅前の通りにはチェーンの居酒屋やファストフード、ドラッグストアがあり、正月休み2日目の今日でもまあまあ人通りが多かった。
そこから一本道を入るとすぐ住宅街で、その中にあるオートロック完備のアパートが先輩の自宅だ。

インターフォンを押す。
ピーンポーン。
「あけましておめでとうございます、岩井です。お土産持ってきましたよ」
『三葉くんありがとー! 開けるね』

紙袋に入れた手土産と、ビニール袋に入れたブロッコリーとにんじんを抱えてエレベーターを上がり、部屋の前に着いた時、ちょうどドアが開いて先輩が顔を出した。

実際に会って話すのは数年ぶりだが、髪を緩くまとめ、黒のニットにジーンズという姿の牡丹先輩は、大学時代からそんなに変わっていないように感じた。

「うわ、そんなにいっぱい持って来てくれたの? 入って入って」
「お邪魔します」

玄関を開けると即、バスルームとキッチンがある典型的なワンルーム。キッチンは食器や調味料、乾物のストックなど物が多い割に整頓されていて無駄なものがない。装飾の少ない部屋の中で、下駄箱の上に飾られた小さなこけしが異彩を放っている。

キッチンの先に見えるリビングは、モノトーンで統一された家具の少ない部屋だ。
恐る恐る足を踏み入れて壁際に荷物を置く。壁際の棚には酒瓶が並べらていて、その上には旅行サークルの面々と行った旅先の写真が飾られていた。灰色のカーペットの上に置かれた白いローテーブルの上には、皿とグラスが置かれていた。

「そんな畏まらなくていいよ。コートも脱いでその辺に置いといて。汚い部屋でごめんね」
「え、いや、なんというか、物が少なくて綺麗なお部屋だなと思って」
先輩はそうかな、と不思議そうに首を傾げた。

「早速だけど野菜の下ごしらえ、手伝ってもらってもいいかな? うち包丁一つしかないから、にんじんは私が切るね。ブロッコリーは、房と茎を切り離すのはキッチンバサミでいけるよね?」

「はい。先輩はどんな野菜用意したんですか?」
「私はピーマンと、あと昨日の晩仕込んだごぼうの煮付けかな」
「正月早々めちゃくちゃ気合い入ってますね」
「昔、法事で行った和食の店で食べた、ごぼう1本丸ごとの天ぷらを再現したくて。これに合うようにノンアルの梅酒も用意してるから」

牡丹先輩は目を輝かせながらそう言うと、冷蔵庫の扉を開けてノンアルの缶を俺に見せた。梅酒以外に酎ハイ、ビール、カクテルのノンアルもある。楽しそうな先輩を見て、自然と頬が緩むのを感じる。

俺はザルを借りてブロッコリーとピーマンを狭いシンクで洗う。実家から送られてきたブロッコリーはいつも目にしているものよりも大きく、その全長の半分が伸びすぎた茎だった。

「ブロッコリーって茎も食べられるんだけど、これだけ伸びすぎてたら味はあんまりしないかも。片栗粉軽くつけて揚げるくらいがちょうどいいかな」
ピーマンもそうやって揚げて塩につけると美味いんだよね、とニコニコしながら、先輩は冷蔵庫の上に置いた作業台で、にんじんを切っていた。

下ごしらえを終え、鍋に油を入れて野菜を次々揚げていく。

ピーマン、ブロッコリーの茎、それから天ぷら粉をつけたごぼうの煮付け、最後に、唐揚げの素に漬け込んだあと粉をまぶした、にんじんとブロッコリーの房。

鍋に放り込まれた野菜は、どれも皆シュワシュワと音を立てながら揚がっていく。熱した油の匂いが狭い部屋に満ちる。
唐揚げを揚げた時は特に、醤油の香ばしい匂いが充満して耐えられない。

先輩はいつの間にかノンアルの缶酎ハイを冷蔵庫から取り出して飲んでいた。
「フライングじゃないですか」
「ごめん耐えきれなかった」
そう言うと「自由」な先輩はまた一口乾杯前の酒を飲んだ。

揚げ物をキッチンペーパーを敷いた皿に盛り付け、ちゃぶ台の真ん中に置く。天ぷらの黄金色と、唐揚げの茶色のコントラストが綺麗で、俺は思わずスマホで写真を撮った。

その隙に先輩はノンアルのビールと梅酒をそれぞれグラスに注ぎ、ちゃぶ台に並べた。
「まだまだいっぱいあるけど、とりあえずこれで」

牡丹先輩は梅酒、俺はビールの入ったグラスを無言で掲げ、酒のない酒宴が始まった。


先輩はまず、ごぼうの煮付けの天ぷらに箸を伸ばした。大きめに切られたごぼうを恐る恐る齧る。さくっ、という音が静かな部屋に響く。

「……どうですか?」
彼女は無言で俺の皿に乗っている天ぷらを手で指し示した。食ってみろ、と言うことだろうか。

「……なんかめちゃくちゃホクホクしてて、ゴボウって感じが全然しないですね」
「ね! でも味はしっかり染みてて美味しい」
「大成功、ですね」
彼女は梅酒をゴクゴクと飲んだ。

続いて揚げたピーマンを食べてみると、油で少しくたっとした食感のあとに、特徴的な苦味を感じた。ししとうの天ぷらに似た味だ。

それからブロッコリーの茎。先輩の言った通り味はあまりしないが、こちらもホクホクとしていて美味しい。

にんじんは揚げると甘いのにも驚いたが、ブロッコリーの唐揚げも意外だった。蕾のつぶつぶした部分が、衣をつけて揚げるとパリパリとした食感に変わり、いくらでも食べられるのだった。

「お酒も飲みなよ、三葉くん。まだまだあるから」
そういう牡丹先輩は、ノンアルのカシスオレンジの缶を開けていた。グラスに注がれた華やかな色が、白いテーブルに彩を添える。

「お酒だったらこんなスピードで飲んだらベロベロになっちゃうんで、やっぱノンアルはありがたいですね。でも先輩までノンアルにしなくても良かったような」
「私も普段ノンアル買うことないからさ、どういう感じか知っておいたら、休肝日に飲むとかできるかなと思って」

「先輩に休肝日って存在してるんですか?」
「飲み会よりも家で飲むことの方が多いから、この日は飲まないって決めとかないと永遠に飲んじゃうから」
「へぇ......先輩、オンライン飲み会は来てませんでしたけど、結構家呑みしてるんですね」

牡丹先輩はグラスを傾ける手を止めた。
「何というか、お酒との距離感を模索するじゃないけどーー大学の時の飲み会でのあの飲み方を、ちょっと変えたくて、オンライン飲み会は行かなかったの」

その言葉を聞いて、俺の手も止まった。
「それはどういう……?」

彼女は、言葉を続けるのを少しだけためらった後、俺にこう言った。

「実は私、飲み会、というより誰かとご飯を食べたりお酒を飲んだり、そういうことが苦手・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・で」


思わぬ告白に、俺は相槌が打てなかった。彼女は、沈黙が怖いかのように、今まで話せなかったことを堰を切ったように語り始めた。

「私、実家は結構田舎の方で、一族みんな酒飲みだから……その、例えばお正月とかイベントの時、家に親戚が集まって酒盛りとかするの。しかも結構な頻度で。流石にお酌しろとか言われないけど、お客さん来てたらご飯食べるのも肩身狭いし、何か色々気を回さないといけなくて」

「そのせいなのか知らないけど、大人になった今でも、誰かと食事すると過剰に気を遣ってしまうというか……だからそういうの、実は苦手で」

「でも、大学生になったら、ゼミとかサークルで、飲み会とかが、避けがたいイベントとしてあるじゃない。だから、今まで気を遣ってきた反動じゃないけど、出されたご飯とお酒だけに集中することで、誰にも気を使わず飲み食いしてやろうって、思ったの」

「......つまり先輩は、飲み会が、お酒を飲むことが好きじゃなかったってことですか」
「お酒自体は嫌いじゃないんだけど......飲み会というイベントとか、そこでの自分の振る舞いは、ずっと嫌いだった」


先輩は皿に目を落とし、残っていたブロッコリーの房の唐揚げを口に入れた。俺も上の空のままブロッコリーの茎を齧る。ただでさえ薄い味が今やほとんど感じられない。

俺は一体、牡丹先輩の何を見てきたんだろう。仲良くなってわかった気になって、先輩の一番大切な部分には、何も気づけてなかったのかもしれない。

「でも、一度だけ、人と飲むのも悪くないって思ったことがあってーー3年前、サークルの合宿で冬の岩手に行った時、初日は吹雪がすごくて、へとへとになりながら着いた宿の夕飯が鍋だったこと、あったじゃない?」

先輩は立ち上がると、背後にある棚の上に飾られた写真を手に取った。旅館の大広間でご飯を食べている旅行サークルの面々の写真。

「あの時、先輩だとか後輩だとか、仲良いとか悪いとか関係なく、酒飲む人はみんな熱燗頼んで、『あったかいね』しか言わなくなっちゃって。可笑しかったけど、なんかいいなって、思ったの。こういう飲み会なら、悪くないなって」

「……飲める人は、そんな感じだったんですね」
「うん。その後、飲み会も何もかもなくなったけどーーその時とか、今日みたく楽しい会を経験すれば、誰かとお酒を飲むのも悪くないって、心の底から思える日が来るんじゃないかって、思ってるの」

そう言って先輩はふふっ、と笑った。俺は、その笑顔を直視できなかった。

俺はすっかりぬるくなったビールを喉に流し込む。炭酸が抜けたノンアルのビールはやたらと苦いだけで、酔うことはできなかった。

☆  ☆  ☆

9時過ぎには、ノンアルは全てなくなり、食器の片付けも済み、お開きの流れとなった。
「じゃあ先輩、良い新年を」
「うん。またやろうよ、この……酒を飲まずノンアルと料理を味わう会」

「なんかいい呼び方ないですかねこれ」
「うーん……あ、そういや最近知ったことわざで、『下戸の肴荒らし』ってのがあるんだけど知らない?」
「いえ、どういう意味ですか?」

「下戸、酒を飲まない人は酒を飲む相手にならないのに料理を食べるばっかり、肴を荒らすばっかり、って意味らしい」
「……えらい言われようですね」
俺は苦笑いした。そういうことを悪意なく言う感じが先輩らしくて、少し気が抜けた。

「うん、でも敢えてそういう名前も面白いかなって。それに響きもかっこいいよね。『肴荒らしの会』、とかいいんじゃない?」
「わかりました、じゃあやりましょう、次も」
そう言って、俺は牡丹先輩に玄関先で別れを言った。

住宅街を抜け表通りに出ると、チェーンの居酒屋の看板が煌々と付いていて思いの外明るく、新年会で来ているのか店に出入りする人が多く、人通りも多かった。酔いを冷ますため店の外で夜風に当たる人たちの間をすり抜け、俺は駅へと向かう。

酔客の間を通り抜けた夜風に、微かにアルコールの匂いを感じた気がして、俺は首に巻いたマフラーをきつく締めた。この匂いだけで、今夜は悪酔いしてしまいそうだな、と感じながら。

ーー
写真は本編とは全然関係のないノンアルワインの画像です(とらつぐみ・鵺)