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渇きを満たす夜(小説)


深夜1時、百日ももかは隣で眠る陽葵ひまりの苦しそうな声で目を覚ました。

「……ん、暑い……」

梅雨真っ只中の夜は、熱帯夜というほど気温は高くないが、じっとりと湿った空気が身体にまとわりつく。

陽葵が寝返りをうつと、細い身体を包むワンピースのようなルームウェアが、するりと布ずれの音を立てる。

首から鎖骨のあたりをいく筋も汗が伝っていて、色素の薄い、細くて長い髪が汗で首に張り付いている。

「陽葵、すごい汗かいてるよ、なんか身体も熱いし。っていうかエアコン消しちゃったの?」
「……電気代気になるから、タイマーで切れるようにしてたはず」
「つけるよ、暑いでしょ。……ちょっとキッチン借りるね」

百日はベッドを抜け出すとエアコンのリモコンを操作した。そのままダイニングキッチンへ向かう。

「あ、ちょっと、そこはあんまり片付いてないから……!」

陽葵は慌てて起き上がると百日の後を追った。一人暮らしの家にしては立派なキッチンには、カップ麺やお菓子の袋は散乱しているが、食材や調味料らしきものはほとんどない。

「あー、料理してない人の台所だね」
「………平日は、仕事で疲れてるから、料理なんてやってられないだけ」

大学の頃から料理してるイメージなかったけど、と思いながら、百日はキョロキョロとキッチンを見回した。

「スティックシュガーとかはある?」
「コーヒーとか紅茶とかに砂糖入れないから、買ってない。入れたら太るし」
「じゃあ、料理用の上白糖借りるね。あと、冷水筒か何かある?麦茶とか冷やすやつ」

百日は冷水筒に水と、たっぷりの砂糖、それから塩をひとつまみ入れた。カウンターに置かれた酎ハイの缶を片付ける陽葵を横目に、それをマドラーでかき混ぜる。

缶を胸の前で抱えている、ポキリと折れてしまわないか心配になる、細い腕。抱えた缶をゴミ袋に放り込む痩せた背中は、危うさすら感じる。

私は恋人であって彼女のお母さんじゃない、と自分に言い聞かせないと、「ご飯ちゃんと食べてるの?」と思わず言ってしまいそうになる。

百日は冷水筒に作った飲み物をコップに注ぎ、陽葵に手渡した。
「これ飲んでみて。どんな味する」
「どんな味って……あんまり味のしない水だけど」
「やっぱりちょっと脱水になりかけてる」

百日が作ったのは、即席の経口補水液ーー兄弟共々スポーツをやっていた百日に、保健師の母親が作り方を教えてくれた「ちょっとしんどそうな人にとりあえず飲ませる飲み物」だった。

砂糖と塩が多く入っているので、脱水状態ではない人間が飲むとすごい味がする。

「え〜っ、やっぱりエアコン消しちゃったのがダメだったのかな。そんなに気温高くないしと思って油断してた」
「熱中症とか脱水症状は、湿度が高い日に起こりやすいから」
「へぇ〜、そうなんだ」

結構色んなところで言われている話だけどな、と思いながら、百日は頷いた。

大学の頃、梅雨時にに何人かのグループでバーベキューをする話が出た時も、その話をしたら「流石詳しいんだね笑笑」という感じの反応だった。

その後酒が回って脱水症状で気分が悪くなった人が続出して、百日が介抱する羽目になったわけだが……

「『知らない』っていうのは怖いんだね、教えてくれてありがとう、ももちゃん」
陽葵は目を細めてニコッと笑い、コップの中身を飲み干した。

その顔を見て、なんとなく、「知っている」ことで損をした過去の自分が救われたような気がして、百日は頬を緩めた。

「……ううん、全然」
「ほら、ももちゃんも飲んでよ」
「え?」
「同じ部屋にいたんだし、ももちゃんも脱水なってないか心配だから」

そう言うと、陽葵はコップを百日に押し付けるかのようにして経口補水液を飲ませた。

百日がごく、ごくと喉を動かしてコップの中身を飲み干すのを、陽葵はじっと見守っていた。

「どう……?」
「……味しない」
「あー、やっぱり。ももちゃん、全然汗かいてなくて触ったら熱かったんだよ」
「えじゃあ私の方が重症……?」
「気づいてなかったんだ」

陽葵は冷水筒を取ると2杯目を注いだ。
「あ、あんまりガブガブ飲むものじゃないから、これ。スポーツドリンクも飲み過ぎは身体に良くないって言うでしょ」
「たしかに、砂糖多いのは気になる」

そう言うと陽葵は、冷蔵庫の扉を開け、ミネラルウォーターを2本取り出した。冷蔵庫の中には缶酎ハイとペットボトルの水以外、大したものは入っていなかった。

「...…今度、ケースでスポーツドリンク売ってるの見かけたら買って送ろうか? やっぱりなんか、心配になってきた」
「え、なんで??? ももちゃんこそ、ちゃんと水、飲まなきゃダメだよ」

-※ -※ -※-※ -※ -※-

短時間だが冷房を入れた部屋は、涼しくて快適な湿度になっていた。

ベッドに腰掛けると、ベッドと反対側の壁際にある棚が目に入る。文庫本や小さな観葉植物、写真立てが置かれた、洒落たデザインのスチール棚だ。

「なんか、さっきの飲んだせいか、結構目が覚めちゃったね」
「冷たい飲み物飲んだからか、なんか頭がシャキッとしちゃったね。まだ2時前なのに」

陽葵は百日の隣に座ると、冷蔵庫に入っていたミネラルウォーターのキャップを開け、ひと口飲んだ。彼女の白い喉元を、口の端から溢れた水滴が伝っていく。

「溢れてるよ、ほら、ティッシュ」
「ん、ありがとう」

 陽葵は大学の頃からこんな感じだ。動作がどこか危なっかしく、話すと少し子供っぽい。でも誰に対しても屈託のない笑顔を向けて、周りをぱあっと明るい気持ちにさせる。そんな子だと、思っていた。

だから大学4年の冬、彼女に告白された時は驚いた。

『百日ちゃんに好きな人がいるのは……知ってる。けど、その人を追いかけるのはもういいかなって思ったら、わたしのところに来てくれない? 大学を卒業してからも、ずっと待ってる』

好きな人、とは言うが恋人と言わないあたり、そのひととの関係がいびつであることも、彼女は見抜いていた。
その上で、自分は待つと言った彼女の、意志の強い目を、今でも覚えている。


大学を卒業してからもう5年になる。

サークルの先輩後輩から始まり、社会人になってからも『会いたい』と言われれば逢いに行ってしまう、そんな感じでそのひととの関係はなんとなく続いていた。

だが今年の春、今の会社に転職し、忙しくも充実した日々を送るようになるとーー心の拠り所は、何も彼女でなくていいのではないか、そんな気持ちになった。

陽葵から久しぶりに連絡が来たのは、ちょうどそんな時だった。

『永見先輩のSNS、全部ブロックしちゃっていいよね? 電話も着信拒否にするね』

陽葵は屈託のない笑みを浮かべて、そう言った。


「ももちゃん、全然お水飲んでないけど、大丈夫?」
「え、ああ……ちょっと考え事してただけ」
「え~っ、せっかく隣に可愛い彼女がいるんだからさ、わたしと話してよ」

そう言うと、陽葵は百日の右腕に自分の左腕を絡めて寄りかかってきた。

「……まだ友達だったの時も、『隣に可愛い友達がいるんだからかまってよ』って言ってなかった?」
「言ってたかも。でもさ、こういうのって言葉よりムードが大事だから」
そういうと、彼女は腕を解くと百日に向き直った。

「ムードかあ。私ももうちょい可愛いパジャマ持ってたらなぁ」
「今着てるやつもかわいいよ! デニム生地? みたいな感じで動きやすそうだし」
「ありがとう。作務衣みたいって言われたことあるけど」
「え〜っ、そんなことないって。シンプルで可愛い」

陽葵が目をまっすぐ見つめて褒めてくれるので、百日は少し気恥ずかしくなった。

「そういうワンピースっぽいやつとか、フリフリのやつは、私が着ても似合わなさそうって思っちゃって、なかなか買えないのよね」
「そんなの着てみないとわからないじゃん? 今度一緒に買いに行こうよ。駅ビルに、わたしの好きなブランドの店あるし」

百日は笑顔で頷いた。陽葵は友達だった時からあまり変わっていない。恋人になったからといって何か変わるわけではない。彼女といると、安堵のような、満ち足りた気持ちで、胸が一杯になる。

でも、と百日は思う。

自分が彼女に、恋人として何かを与えられていないから、彼女は変わらないのかもしれない。いつかーー期待はずれだ、という顔をされてしまわないだろうか。

眩しい笑顔を浮かべる陽葵が直視できなくて、ワンピースの肩紐がかかった鎖骨あたりを見つめることしか出来なかった。

「駅ビルで思い出した。あそこに最近できたラムネの専門店、この前行ってきたよ。ももちゃんが気になるって言ってたとこ」
「え、ほんと?」
「一緒に食べようと思って買ったのに言うの忘れてた! 今食べよ」

陽葵はベッドから立ち上がるとキッチンに向かい、百貨店のロゴが入った紙袋を取って戻ってきた。中には、蝶々と花の可愛らしいイラストが描かれた缶が入っている。

「こんな夜中に甘いもの食べるの?」
「でもさっきの飲み物も、砂糖めっちゃ入れてたじゃん」
「あれは……緊急避難だから」
「じゃあこれも緊急避難ね。賞味期限今日までだし。はい、あーん」

何か言う暇も与えず、陽葵はラムネをつまみあげ、百日の顔の前に持ってきた。ラムネは少し大きめで、完全な丸ではない不恰好な形をしていた。

「ほら、あーん」
言われた通り口を開けると、陽葵は舌の上にそっとラムネを置いた。その瞬間、舌の上でラムネがほろほろと崩れ、オレンジとアールグレイの香りが口いっぱいに広がった。

「!!!なにこれ、すごい」
「え、そんなに美味しいの? わたしも!」
陽葵がべぇ、と舌を出すので、百日は舌の上にラムネを一粒乗せてやった。

「うわぁ〜っ、なにこれ、あっという間に溶けちゃった」
「普通のラムネよりだいぶ柔らかいね、これ」
「味も上品で美味しい〜」

口々にいいながらぱくぱくと食べ続けると、あっという間に一缶がなくなってしまった。

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砂糖というのはーー適量摂ると脳の栄養になって頭が冴えるが、一度に大量に摂ると、他の炭水化物と同様に眠気を誘う。

深夜2時に、はしゃぎながらラムネを食べていた二人が眠くなったのは、必然だった。

「……美味しかったね、ラムネ」
「うん……」
「眠気が戻ってきたし、寝ようか」

百日と陽葵は、また元のように二人並んでベッドに寝転んだ。陽葵はすぐに目を閉じる。

百日は微睡みながら、呼吸に合わせてゆっくり上下する彼女の胸と、ウエーブがかかった淡い色の髪を見つめていた。

その時、部屋の電気はついたままなのに百日の視界が急に暗くなった。寝たと思った陽葵がーー彼女の首に手を回し、抱きついてきたのだ。

薄いワンピース越しに、陽葵の体温と鼓動を感じる。一見か細くて頼りない彼女の身体でも、抱きつかれると息苦しくて、そして熱い。


「陽葵……暑いんだけど」


苦しそうな百日の声を聞いても、陽葵は腕を解くことはなく、そのまま穏やかな寝息を立て始めた。


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散歩中、真紅で綺麗な紫陽花を見かけました。ちなみに紫陽花の花言葉は「移り気」「浮気」です(とらつぐみ・鵺)