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チャイを飲んだ男(小説)


北西ノースイースト駅。

この国の北西地方のターミナル駅で、最北部ノースサイドから東部イーストサイドまでを結ぶ高速列車が多く発着する駅だ。

だがその中で、最北部の北端ノース・エンド――「人も住まない」と揶揄される北の果てに向かう列車が着く0番線ホームは、少し独特な雰囲気があった。

そのホームは他の高速列車のホームや在来線から離れた場所にあった。

本数こそ少ないものの、高速列車に乗ろうという人は一定数いて、だだっ広いホームには長い待ち時間を潰すための売店やカフェ、待合室がある。


時刻は20時過ぎ。今日最終の列車の到着を前に、多くの乗客が構内を行き交っていた。

売店で土産を見ている家族連れ、これから出張なのか待合室でノートパソコンを開いているスーツ姿の男。帰省するのか家族に電話をかけているスーツケースを持った若い女――

様々な目的でこの駅にやってきた客たちの、旅への期待、ようやく帰れるという安堵、そういったエネルギーが、ホームのあちこちを彩っていた。


男はその彩りから目を背けるように、ホームの端をひたすら歩いていた。

薄汚れた鼠色のコートに黒い帽子を目深にかぶり、黒いマフラーで口元を覆っている。まだ40代半ばのようだが、くたびれた服装と背中を丸めて歩く様は、老人のようにも見える。

だが、帽子の下から時折見える目には、猛禽のような鋭い光が宿っていた。

ボストンバックを手に持ちながら歩く動きには無駄がない。
時折ちらりと背後を見て周りを気にしているようだが、ホームにいる者の中で、男に注意を向ける者は誰もいない。


男はやがてホームの端に着いた。ここまで来ると店もベンチもないためか、周囲には誰もいない。


……いや、店はあった。

一目見ただけだと倉庫か何かに見えるくらい、地味な外観だが、確かにそれは喫茶店のようだった。

扉の前に、「喫茶きまぐれ 本日のメニューはマサラチャイ」と書かれたボードが置かれていた。窓はあるが、覗いても中が薄暗くてよく見えない。

「……」

男は興味が引かれたのか、扉の前に一歩踏み出した。扉のノブには「OPEN」と書かれた札が書かれていた。

その時店の中から、

「席開いてますよ、っていうか誰もいませんよ、どうぞ~」

という声が聞こえてきた。

男は少し驚いたが、開けないのも気まずい、と思ったのかドアを開けた。


カランカラン。

ドアベルの音がやけに響く。店内は狭く、照明の光は抑えられた落ち着いた雰囲気で、正面にカウンター席が数席あるだけだった。

聞こえてきた声の通り、客は誰もいない。

「いらっしゃい。どうぞ適当なとこに座ってください」

声の主は、カウンターの向こう側に立っていた初老の男だった。

ぼさぼさの銀髪に丸眼鏡、小ぎれいなチョッキを着た彼が、この店の店主らしかった。彼の手元には調理台とコンロ、後ろには棚がある。

「ああ、どうも」

「コート掛けはそちらにありますよ。ああ、もちろん着たままでもいいですけどね。まだ列車まで時間あるんだし、ゆっくりしていってください」

店主は見た目よりも若々しい、はきはきした声でそう言った。

男は店の暗さに目が慣れてくるのを待ち、店主の表情を伺った。
にこにこと平和な笑みを浮かべる店主の顔からは、疑いや恐怖といった感情は見て取れない。

「お水とおしぼりどうぞ」

「……外にありましたけど、メニューって」
「今日はマサラチャイだけです。こんな小さな店ですから、1日1種類出すのが限界で」

「チャイって確か…… 西国インドの……」
「ええ。煮出した紅茶をミルクとたっぷりのスパイスで飲むお茶です」

「粗悪な茶葉しか手に入らないから、煮出してスパイスを色々混ぜて飲んだっていう……」

店主は目を丸くし、心なしか嬉しそうに続けた。

「よくご存じですね。茶葉、スパイス、ミルク。色々なものが混ざり合って、新しい味が生まれる。そんなお茶です。飲んで行かれますか?」

「……甘い飲み物はそんなに好きじゃないんだが、折角だし飲んでいこう」
「ありがとうございます」

店主はそう言うと、片手鍋に水を入れてコンロに火をつけた。チチチッという軽い音がして、青い炎が灯る。

男はコートを脱ぎ、マフラーを外すとカウンター席に座った。帽子は少しためらってから脱ぐと、床の上のボストンバックの上に置いた。

店主は背後にある棚から缶とスパイスの入った瓶、冷蔵庫から生の生姜を取り出した。瓶の中身――乾燥させた種や花芽のようなものを、皿に出す。

「……さっきも聞いたがこの店、メニューこれだけなんだよな」
「ええ。今日はチャイしかお出ししません」
「こんな一から、作るもんなのか」

店主は小さな石のようなもので、皿にあけた瓶の中身と生姜をすり潰していた。

ゴリッ、ゴリッ。
皿の上のスパイスを潰す音がするたびに、強烈なスパイスの匂いが鼻を刺す。

「……作り置きしとくもんなんじゃないかって、おっしゃりたいんでしょう」
「いや、まあ……」

「よく言われますよ、お客様にも、たまに利用される駅員さんにも。そんな非効率的なってね」

真剣な表情で皿を見つめながら、店主は続けた。

「北端行きの長距離列車は、待ち時間がとても長いでしょう? 4、5時間に1本とかですから。だからみなさん、売店を冷やかすなり、待合室にいるなりして待っている」

でも、と店主は言葉を切って男の方を見た。その目がさっきとうって変わり鋭いのに、男は驚いた。

「お客さんみたいに、そうやって待つのが耐えられない・・・・・・・・・・人もいる。独りでベンチに座って物思いに耽れば、何か耐えきれない思いが押し寄せてくる、そんな人が」

「…………」

男はカウンターに両肘をつき、額の前で両手を合わせ、目を閉じた。

ひとつため息をつくと、精神的な疲労が、身体の中心からにじみ出て、末端まで行き渡っていくかのようだった。

「……わかるのか」

ややあって、男はぼそりと言った。

「わかりますよ。この駅には、もう二度とここには戻って来られないお客様も、たくさんいらっしゃいますから」

「並々ならぬ覚悟で故郷を出る方、子供を亡くされて実家に帰られる女性、何かから逃げておられる方……」


鍋に入った水は、ゆっくりと温度を上げていく。鍋の淵と底に、ぷつぷつと細かい泡が湧き始める。


「私はそんな人にもね、湯が沸いて飲み物ができるまでの時間、ほっと一息ついてほしいんですよ」

「鍋の水が沸く音だとか、暖かい飲み物が立てる湯気だとかーーそういうのには、辛い現実を忘れさせる効果があるって、信じてるんです」

沈黙が支配する店内。ガスコンロのシューッという音と、ぽこぽこと沸き始めた水泡が弾ける、かすかな音が聞こえる。


しばらくの間をおくと、男は目を閉じたままフッと身体の力を抜いた。

「……俺は茶に興味なんかなかったけど、チャイについてはあいつが教えてくれたんだったな、そういや。茶は飲めないが、色々混ぜた甘いチャイは好きだって、言ってたな……」


「では、とびきり甘いチャイをお作りしましょう」


店主はそう言うと微笑んだ。鍋の水はやがて、ぶくぶくと大きな泡を立て始める。

店主は、缶の中の茶葉とまな板の上のスパイスを鍋に放り込む。ぐらぐらと茶葉は煮え、水は茶色へと変わっていく。



☆ ☆ ☆

あまり詳しくは話せないんだけどよ、と男は前置きし、ぽつりぽつりと語り始めた。

「俺は西の方イーストサイドの出でな。親が不仲だわ周りに碌な大人はいないわでーー学生の時分は悪い奴らと連んでた。……他のやつと違って俺は、暴れるだけの気力もなく繁華街をうろついてただけだがな」

「そんな時、あいつが声をかけてきた。一つ歳下で、ガキの時に妙に懐かれて、俺のことをずっとたっちゃん、と呼んでた。奴は超のつく進学校に通ってて、住む世界が違うと思ってたんだがな……」

鍋から立ち上る湯気は、漢方薬のような匂いを伴っていた。真っ黒な水面には茶色い泡が立ち、細かいスパイスの欠片が浮かんでは沈む。鍋を眺めながら、男は昔を懐かしむような表情になっていた。

「『色んな奴がいて混ざり合う方が楽しいから』って、学校を出たらいつか一緒に仕事をしよう、って言ってくれた」

「……嬉しかった。それから俺は悪い連中と手を切って、あいつと同じ職についた」

店主は鍋の中身を泡立て器でかき混ぜていた。水面を覆う泡が、さらに大きくなる。

「けれどやってみたら、まあ酷い仕事だったよ。俺の昔の経歴を知った上の連中に、汚れ仕事をやらされたこともあった。だがある時、大学を出て出世したあいつが、新部署を作る時に俺を呼んでくれた」

そう語る男の目は生気に満ち溢れ、顔を覆っていた疲労の色もどこかへ消えていた。

「奴は約束を果たしたんだ。俺も奴の役に立とうと必死だったよ。今まで以上にがむしゃらに働いてたある日ーー上の連中が、不正の後始末を俺たちのチームに押しつけてきた」


店主はコンロの火を弱め、砂糖と牛乳を鍋に入れる。黒々とした水面に、牛乳が模様を描く。ロールシャッハテストのような、不気味で不穏な渦巻き模様が小さな鍋に広がってゆく。

「後で知った話だが、その不正は議員も関わっていた、タチの悪いものだった。だが――あいつはそれを突っぱねた。すると、受けなければ俺が加担した不正をバラす、チームも解散させる、と脅してきた」

「……可笑しな話だろ? 俺は上の指示で動いただけなのに」

「それを聞いたあいつは激怒して、不正の証拠を集めて、上の奴らとケリをつける、と言ったきり、姿を消してしまった」


「そして数週間後――あいつは、自宅で死体となって発見された」


自殺だと、判断された。男は絞り出すような声でそう言った。


「リビングに、毒薬の瓶と緑茶が入った湯呑み、遺書が置いてあったんだと。だがあいつは――渋い茶は飲めなくて、特に緑茶は、人に出されない限り・・・・・・・・・飲まなかった!」

「……」

「俺にだけはわかるように、あいつは……敢えて犯人が出した緑茶を飲んだんだ」

男はそう言ったきり、俯いて口をつぐんだ。鍋の中身がぐらぐらと煮える音だけが響く。店主は穏やかな表情で、鍋を見つめていた。



やがて店主はコンロの火を止めた。茶漉しで漉しながらチャイを大きなカップに入れる。

「チャイは、注ぐ前にこうやって泡立てると、口当たりがよくなって美味いんですよ」

そう言うと、店主はカップを高く掲げ、もう一つのカップ上からチャイを注いだ。

トポトポトポ。

心地よい音とともに茶が注がれるたびに、茶の表面に泡が増えていく。やがてあふれんばかりの泡に覆われた茶は、陶器製の小さなカップに注がれた。

「どうぞ」
店主はカップを男に差し出した。薄桃色のカップになみなみとつがれた、少しうすいキャラメル色のお茶。表面には細かい泡が立ち、スパイスの粉がわずかに浮かんでいた。

男はカップを手に取り、そっと一口飲んだ。

口にした瞬間、シナモンの甘い香りと砂糖の甘さを感じる。

そして後からやって来る、生姜や胡椒のピリリとした風味、紅茶の渋み。ミルクのまろやかさが、それらを絶えず優しく包んでいる。


ゆっくりとそれを味わった後、男はチャイをぐい、と飲み干し、一つため息をついた。


「うまい……でもやっぱり俺には、ちょっと甘すぎるな」

「ありがとうございます。もう1杯、いかがですか」

男は頷くと、店主から2杯めのチャイを受け取った。


「店長さん、俺はさ」
温かいチャイに促され、男は再び言葉を紡ぎ始めた。

「あいつが死んだとき――仇を討って、すべてをぶちまけることしか、俺にはできないって、思ったんだ。今逃げているのも、せめてあいつの死が、世間様に忘れらないようにって、思ってだ」

男は、カップの表面に浮かんだ細かい泡を見つめていた。

水面に映るその顔は、憑き物が落ちたかのような、すっきりとした表情だった。

「だから後悔はしていない……俺の役目は、もうじき終わる。全てが終わってしまったら、俺の存在も、この泡みたく消える。そのつもりでいる」


「……お客さん」

店主の声に、男は顔を上げた。カウンターの上に、蓋つきの紙コップが置かれていた。

「これは……?」

「分量を間違えて、多く作っちゃったから、道中にでも飲んでくださいよ。それか、お友達の分も・・・・・・飲むと思って、ね」

そう言うと、店主は少し淋しげな微笑みを浮かべた。

それが、数多の人を見送ってきた店主が男にできる、最大限の餞別だった。



☆  ☆  ☆

プルルルル……
『まもなく、0番線に、21時ちょうど発、北端行きの列車が参ります』

薄い店の壁の向こうから、駅の場内アナウンスが聞こえてきた。男はカウンターの上に代金を置くと立ち上がり、荷物をまとめて店を出た。

店の外に出て、21時発の列車がホームを発ったのを見届けると、店主は店のドアにカギをかけた。


今日はもう、店じまいだ。

カウンターを拭きながら店主はふと、たまにはテレビでも観ようと思いつき、スマホのワンセグ機能を立ち上げた。

地上波のチャンネルを適当につけると、夜のニュース番組の賑やかな音楽が流れ、静かな店内が音に満ちあふれる。

「次のニュースです。

西方イーストサイド市にて、同市の警察署長と首都メトロポリタン警察本部の幹部数名が殺傷され、元刑事の木本タツミ容疑者が逃走している事件について、

その背後に警察と西方市出身の議員との間で行われた不正があったことが、マスコミ各社に宛てて送られた、木本容疑者名義の告発文で明らかにされました。

告発文には、『不正に関与したとされ先月自殺した元警視は警察に殺された』といったことも書かれており、警察は今だコメントを発表していませんが、

この事件を機に、世論では真相究明を求める声が高まっており……」

店主はニュースを見ながら、使い終わった食器や調理器具を片付け、カウンターを出て掃除機をかけた。数人しか客は来てないから、あっという間に片付けは終わった。

いつの間にかニュースは終わり、バラエティ番組が流れていた。時計を見ると22時。次にこの店に客が来るのは明け方――始発の列車に乗り込む前に一杯飲みに来るいつもの駅員だろう。

店主はワンセグと店の電気を消し、店の奥に引っ込むと、シャワー室でシャワーを浴びて寝袋に入り、目を閉じた。


いつものことだ、今日チャイを飲んだ客の記憶は、泡のようにすぐ消えてしまうだろう――

と、心の中で呟きながら。




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家で作るチャイも好きですが、インドで本場のチャイを飲んでみたいですね、いつか……(とらつぐみ・鵺)

参考にしたサイト

*カバー画像はみんなのフォトギャラリー・カレー哲学(東京マサラ部)様よりhttps://note.com/philosophycurry/