自分の音楽の好みや演奏のルーツとなった物事たち
はじめに
以前Instagramにも同じものを掲載したのですが、個人的にこの文章は「自分の中の考えを整理する」という目的も兼ねて書いていたので、こちらのnoteに半ば備忘録として載せておきます。
それはそれとして、全く同じだと面白くないので、今大阪に来ているため日記も合わせて挟んでおきます。
10/13日記
今回、約2年ぶりに大阪に、また日曜日からは京都へ遊びに行こうと思っています。
この1年半ほどで、関西方面で会いたい人、お世話になった人がありがたいことにとても増え、是非とも会ってみたく思い、有休を使い遊びに来てみました。
せっかくの大阪、ただ観光して終わり、というのは寂しく感じるタイプでして、今回大阪のStudio T-BONEというスタジオで、1月にライブで共演させていただいたピアニストのフルナギネヲさんと共に、プライベートなセッションを開催させていただきました。
なんと大学の後輩が大阪に住んでいたのが分かり、彼も遊びに来てくれたり、また次の日のゲーム音楽のジャズアレンジライブ「紅楼ジャズ」でご一緒する予定のベーシスト2416さんも来てくれた他、プライベートなのに初めましてな方も来てくれ、とても楽しい夜になりました。
「また是非やりたいです」との声もあり、そしてStudio T-BONEさんからも優しくしていただき、今後は大阪に定期的に行きたくなってしまった1日でした。
自分の音楽の好みや演奏のルーツとなったと思う物事
自分が今ドラムを演奏する時、演奏ジャンルなどの方向性や、音楽の好みの傾向といった2つの傾向は、振り返るとやはり地元での生活、特に「地域の特性」と「家庭で受けた影響」の2つがあり、それが最近結びついてくることが増えた気がします。
Unplugged Jam Proudとして活動する時には、単なるドラムの音ではなく「Unplugged Jam Proudのリズム」としての楽音・フレーズを意識した、どこか民族的だけれどどこでもないビートを生み出すことを意識しています。
具体的に挙げると、Daru Jones、Chris Dave、Dos Monos、長谷川白紙のようなプレイ・音色を参考にしてドラムセットの構築やインタープレイの展開を構想したり、Amaro Freitasの曲からピアノフレーズを引用してドラムにトランスクライブし、「Tribal Driver」という曲が生まれています。
個人でのインプロヴィゼーションでは、として、その1音1音と、自分を丁寧に見つめ、静寂から音楽がゆっくりと生まれる様を見つめています。
こちらでは福盛進也、Brian Blade、Thierry Lang、Bobo Stenson、Oded Tzurなどのプレイヤーから触発された即興演奏が多いです。
とくにBrian Bladeは学生の頃大好きでよくコピーしていました。
この2つは、アプローチは全く違うものの、どちらも自分の中では挑戦と試行錯誤を繰り返し、掘り進め、開拓して変化させていくという過程を辿っており、どちらも自分の地元である十和田市の開拓史と現在も続く「アートの街」としての変遷のように捉えています。
出身である青森県十和田市のある地域は、元は3本の木しか生えないような痩せた土地として「三本木原」と呼ばれていました。
それを新渡戸伝(つとう)を中心に、人工河川「稲生(いなおい)川」を含む十和田市の開拓が行われて生まれた、「開拓者の街」です。
そして2010年以降から、町の中心に十和田市現代美術館が建ち、それをはじめとしてさまざまな現代アートが市内に展示されるようになり、
街中の景色は幼い頃から今にかけてずっと変化を続けてきました。
そのため、伝統が浅い代わりに「変わり続ける」という大きな特徴を持っており、また現代アートをはじめとした前衛的な作風、静謐な空気を纏いつつある町です。
こうした地元の絶え間ない変化の中で生きてきたがために、今の自分もプレイやジャンルを変化、混合させ、新しいものを生み出そうとしていく流れが身についているのかもしれないなぁと緩やかに感じています。
また音楽的な好みやプレイにおいて影響を受けているプレイヤー、即興演奏での傾向は、やはり親からの影響がとても大きいです。
父は建築士、母はセラピストとして働いており、両親共に現代建築や美術館を巡る旅行が好きで、よく十和田市立現代美術館をはじめとした県内の美術館によく連れて行かれていました。
特に、展示物よりも美術館そのものの真っ白な壁や、広い空間に伝わるわずかな足音を楽しみながら、作品をその目で近距離に見つめることが楽しみでした。
小さい頃はそれこそ施設そのものにばかり目がいっていましたが、その後は作品にも向き合えるようになり、解説と合わせ、作品がどのような解釈を持ち、何を目指したものなのかを頭で考えながら見つめていく楽しさを学びました。
小さい頃から書道を習っていた影響か、素朴で色味の少ない作品や、余白を残した作品にある緊張感、大きな部屋にぽつんと佇む作品の寂しさが好きでした。どことなく自分に寄り添ってくれるようだったからかもしれません。
残念ながらドラムは親からはあまり快くは受け入れられておらず、逆にパーカッションまで手を広げすぎず、「ドラムという楽器で表現する」ことへのこだわりは、親への小さな反発な気がします。
また、他に「自分が好きで触れていたもの」はやはりネットですね。小さい頃から親から古いワープロを譲ってもらったことから始まり、小学生の頃からフラッシュ、ニコニコ動画、YouTubeと長く見てました。そのせいか地元の方言である南部弁があまり定着しなかったです。
音楽においてはボーカロイドによる楽曲が好きでしたが、その中でも西島尊大「8」、じん(自然の敵P)「日本高架下R計画」は特に好きな曲です。
また、ドラムのスタートはアニメ「けいおん!」に影響され、その後中学〜高校とBase Ball Bearや9mm Parabellum Bulletのコピーなどやっていましたが、大学でビッグバンドに参加してからはめっきりやらなくなってしまいましたね。あまりこの辺の音楽が今も結びついてるかと言うと不思議とそうでもないような、でも「まず自分で考えて練習する」というやり方を培ったのはあの6年間だった気がします。
長くなりましたが、これらが自分の音楽における根幹だという認識です。自分の精神の支えとしての地元と、趣味趣向、感性を育て上げてくれた家庭の2つの面から今の自分の音楽が成っています。
最近「音楽のルーツは?」と聞かれ、ふと「学生の時も似たようなことを先輩に聞かれたな」と思いながら答え、そのまま整理してテキストに起こしてみました。その時の先輩は最近ご結婚なされており、自分としても嬉しい限りです。
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