不幸せの定義
気付けばGWは終わっていたけど、COVID-19は未だに終息する気配がない。
外出自粛となれば家にいる時間が増える。一方で、旅をする機会は目に見えて減る。
COVID-19の影響で旅を断念した人はアホみたいにいるだろうし、旅をしていた人たちは「不幸だ」と感じたかもしれない。
ただ、僕からしたら旅を辞めるだけで済むなら「幸せ」でしかない。
だって、何も失っていないではないか。
確かに時間もお金も失ったかもしれない。
でも、だとしても、それらを失っても旅は出来る。
僕はここで「生きていることが尊い」なんて綺麗事を言うつもりはさらさらない。
僕はただ心から「失ったものが再度手に入れられるモノでよかったね」と思ってしまうのだ。
あの日、僕はイタリアに到着したばかりだった。
世界一周も折り返し。北米、南米の旅を経て、ようやくヨーロッパに辿り着いた。
着いて早々、南米の物価に慣れきっていた僕は頭を抱えた。ヨーロッパの宿泊費が南米のそれとは比にならないくらい高かったのだ。
行き着いた結論は他力本願上等、カウチサーフィンだった。(本来は文化交流を目的に利用するはずのサービスを、よこしまな感情で利用しようとしていた過去の自分を本当に恥ずかしく思う。)
もちろん、当日に探し始めて当日にホストが見つかるわけがない。かといってホテルに泊まるのを躊躇ってしまった僕は、野宿という選択をした。
「都会だし、最悪、24時間営業の店に居座ればいいし、なにより、海外で野宿とか、なんか旅っぽい」
いま思えば本当にバカみたいではあるが、とにかくその日の僕は野宿をすることに決めた。
深夜27時を過ぎた頃、僕はマクドナルドにいた。
結局寝るわけでもなく、今までの旅のデータを整理していたのだ。
にしても、さすが日本でも慣れ親しんだ店だ。安心感が違う。
「あと少しで夜は明けるだろうし、もう、このまま起きていよう」
そう心で決めたその時、店内の客たちが一斉に席を立ち始めた。
何が起きているのかわからなかった僕を見かねてか、近くのカップルが「今日はもう閉店だから出なきゃいけないよ」と教えてくれた。
「あれ?24時間営業って表記されてなかったっけ?」と思いはしたものの、店が閉まるのでは出ていくしかない。
どうせもうすぐ夜は明けるだろうし、翌日は電車で移動する予定だ。
僕は、今のうちに駅まで移動しておくことにした。
早朝の駅前は当たり前だけど人がまだらで、4月とはいえ少し冷えついた空気が静けさに拍車をかけていた。
始発まではまだ時間があるようで、駅は閉鎖されている。
駅の周りを見渡すと、少し離れた場所にベンチを見つけた。
バックパックは足元に、リュックサックはお腹に抱えるようにして、ベンチに腰を下ろす。
今日のスケジュール、これからの旅のルートを頭の中で考えながら、駅が開くのをただただ待ち続ける。
目を開くと、お腹に抱えていたはずのリュックがない。
知らないうちに寝てしまっていたのだろうか?気を失っていたのだろうか?
そんなことは後でいい。とにもかくにも、リュックがない。「ドラマみたいだ」なんてちょっと嬉しくなっている場合ではない。
いつもはバックパックと分けている貴重品類を、よりによって今日だけはあのリュックに纏めてしまっていた。
サブの財布、パソコン、カメラ、今までの写真データが入ったSDカード、パスポート、全部だ。
結論から言えば、盗まれたものは何も返って来なかった。
盗難届をもらうために警察に行けば「残念だけど、戻って来ないと思うよ」と言われ、パスポートを再発行するために大使館に行けば「戻ってくるわけないですよ」と言われた。
別に、全部返って来なくてよかった。パソコンもカメラもお金も、それだけでいいならあげるよ、とすら思った。仕方ない、スタンプが押されたパスポートもあげよう。
でも、SDカードだけは返して欲しい。
僕は、旅の記録を返して欲しかった。
旅のデータを失くして、気付いたことがある。
旅人が一番失くしたくないものって、旅の記録なのかもしれない。
「失って初めて気付いたことばかりさ」なんて金井さんは歌ったけれど、本当にその通りだ。
当時、いろんな人が僕のことを心配して、優しい言葉をたくさんかけてくれた。
「死んでなくてよかったよ。生きてたら、また旅はできる」
「記録がなくなっても、記憶はなくならないよ」
うん、言いたいことはわかります。めちゃくちゃわかります。
なんなら失くす前の僕も、目の前にそんな旅人がいたら、同じ言葉をかけてそうだから。
でも僕は「失くした」側の人間になってしまった。
だから、二度と手に入らないその記録が、どれだけ尊いものなのかがわかってしまう。
そう、二度と手に入らないのだ。
ここまでの旅で出会った人達の写真も、その日その時だったから出会えた景色の写真も、もう、二度と手に入らないのだ。
記憶が残っている...?哀しきかな記憶は時の流れには逆らえない。日に日に薄れていく。
それにこの「不幸」は、自分の選択によって生まれたものだった。
自分のせいで、もう二度と手に入らないものが失くなってしまったのだ。
自分を責めたいけれど、失くして悲しいのも自分。
怒りを、悲しみを、どこにぶつけたらいいのかわからなかった。
だから、COVID-19の影響で旅ができなくなったって、お金と時間を失ったって、「幸せ」じゃないか、と思ってしまう。
だって旅の記録は失ってない。写真を見て、当時の感情を思い出すことができる。
そんなの、僕からしたら充分に「幸せ」だよ。そう思ってしまう。
けど、僕はちゃんと知っている。
僕にとっては旅の記録を失ったことが一番の「不幸」だったように、人それぞれの「不幸」があるということを。
それこそ、旅中に命を失ってしまった人からしたら僕は「幸せ」に決まっている。また旅が出来るのだから。
でも、それでも、僕は自分を「不幸」だと思う。
「不幸せ」の定義なんて、そんなものである。
だとしたら「幸せ」の定義だって、そんなものなのかもしれない。
人間といういきものはなかなかに厄介で、幸せな記憶より不幸な記憶のほうが脳裏に焼きつくらしい。
だけど、「不幸せ」の定義なんて"そんなもの"だ。
他人がどれだけ幸せだと思おうが、自分が不幸だと思ったらそれは「不幸」だし、
他人がどれだけ不幸だと思おうが、自分が幸せだと思ったらそれは「幸せ」なのだ。
だったら自分の中で「幸せ」のハードルをどんどん下げて、「幸せ」だと感じる瞬間を増やしていった方が人生楽しい。
とは頭でわかってるんだけど、それがなかなか、難しい。
っていうのを文字にしておきたくてこの文章を書いた。
盗難のことをこうやって文章に出来るくらいには、自分の中であの「不幸」が過去のものになってるんだろうなぁ。
嬉しいようで、なんか哀しいね。
はやくCOVID-19が終息して、「幸せ」を感じられる日が来ることを願って。
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