舞台に立つということ

 2021年5月に、舞台俳優として舞台の上に立った。
 これまでの人生の中で芝居に出たことはなく初めての経験だったが、そのきっかけは芝居を観に行ったとき、同じ場所に居合わせた初対面の人から唐突に声をかけられたことだ。

 「今度芝居をやるんだけど、君にぴったりの役があるから出てみない?」

 「新手の勧誘か!?」と驚いたが声をかけてくれた人の目は輝いていたし、詳しく話を聞くと過去に何度も観たことのある劇団の人が演出を担当していた。その場では驚きのあまり「前向きに検討してみます」と返答したが、その後改めて連絡してやってみることにした。どうなるかは全くわからなかったが、声を掛けてもらえてなんだかわくわくしていたし、いつか舞台の上に立ってみたいとぼんやり思っていた時だった。


 僕は定期的に舞台作品を観る家庭で育ち、小学生の前あたりから2〜3ヶ月に1本のペースで親と一緒に観に行った。芝居だけではなく、管弦楽や落語、パントマイムなど多ジャンルを観た。大学に通うようになってからは自分で探して見に行くようになり、強く記憶に残っているのは大学生の頃や社会人になった頃に観た芝居で、今の自分の考え方に影響を受けたものばかりである。目の前にいる役者の演技を通じて、人間が持つ喜怒哀楽を面白いと感じた。喜びを爆発させる姿、自分の進む先に葛藤する姿、自分自身を重ねて学んでいたようにも思う。いつしか演じる側にも立ってみたいと思うようになった。
 ただそのタイミングは少し遅く、大学を卒業して就職してからである。僕はやりたいことを明確に持っていたわけではなかったので、食っていけるからという理由で理工系の大学に入学・卒業し、技術職に就いた。もちろん自分で選んだ道であるが、舞台芸術とは遠い世界である。それでも役者をやってみたいとぼんやり思っていたのは、現状に漠然とした疑問を持っていたからだ。
 技術職が嫌いなわけではない。ただ仕事である以上は効率を重視する場面も多く、与えられた業務をこなすことや、数字を追いかける内容も多々あった。達成感も感じていたが、このままでは良くないという感じがあった。効率を重視するためにひとつの仕事を7〜8割で仕上げて次に着手するやり方になっていて、汎用的なものを作るのが常になっていた。それ以上の仕事を成し遂げようと勉強したし、最初のころは上司とも何度も言い合いになったりしたが、次第に中庸なやり方に慣れてしまっている自分がいた。
 かといって、飛び出して成し遂げたいと強く思うものはなく、このまま働くか、別の人生を歩みたいのか、答えが出ないまま27歳の時間が過ぎていった。そんなときに芝居をやってみないかという話をもらったのである。


 稽古は毎回とても刺激的だった。公演ごとにメンバーを集める小さな団体だったが、演出はプロの舞台俳優で、基礎も丁寧に指導してもらった。普段立つ・歩く・話すという一つひとつの動作はその時の気分に合わせて何気なく行っているが、いざ意識的にやってみるととんでもなく難しかった。普段使っていない身体と頭の回路を使い倒すような感じで、稽古終わりは筋肉痛になるような感覚。それでも毎回の稽古が楽しかった。
 演技の経験と技術は無かったとしても今まで生きてきたことを元にして、演じる役の感情を自分のこころの中で膨らませていく。そのエネルギーを身体と言葉に乗せて相手役へ届けて、同じように返してもらったエネルギーを受け取り感情のエネルギーにする。演じる感覚を言葉にするならこんなだろうか。この試行錯誤を繰り返してシーンごとに感情の道筋を作り上げていく稽古だった。

 公演当日が近づくと劇場を借りて稽古をすることも増え、スタッフとも合わせていった。今まで芝居を観るときは物語や役者に注目していたけれど、それ以外にも照明・音響・舞台美術などたくさんの人がいて芝居が出来上がっていて、全体のアンサンブルを作り上げるのが演出家だと知った。演出家が描く作りたいイメージに沿ってスタッフそれぞれが120%の力で応えていくような熱い空間が出来上がっていった。
 そんな熱量に反比例するように、僕は自分の役を見失いつつあった。こんなレベルの高い人たちの中でやれることに喜びを感じつつも、本当に自分がここにいていいんだろうか。経験も技術もない自分に何ができるのだろうか、と自問自答の繰り返しが始まった。振り返れば周りのレベルの高さに萎縮して自信をなくしていたのだ。
 今までの稽古では役として膨らませた感情を丁寧にたどることに一生懸命だった。しかし、自分の中で不安と自信のなさのほうが大きくなって、感情を膨らましきれなかったり、相手へ渡す角度が微妙に違ったり、思い切ってやれない期間となった。もちろん演技に分かりやすく出てしまっていて、演出家からダメ出しを受ける。繰り返しやってみるが、なかなか変えられない。このループから抜け出せないまま、日中には仕事もある。もどかしいまま日々は過ぎて公演当日が近づいてくる。

 そしてついに本番の日が来た。自信はなかったとしても、この場にいる人の中でこの役をやれるのは自分だけなのだと思うと、腹をくくるしかないと思えてきた。技術や経験がないのは最初からで、いまさら悩んでもどうにもならない。ここまでやってきたんだから、たとえどうなったとしても思いっきりやるしかないのだ。

 初日は2時間の公演時間があっという間で、ただただ必死だったことを覚えている。稽古で練習した感情の道筋をたどれるように、と思ってやっていたが、緊張のあまり相手へ届けたものが変化していたと思う。それに相手も変化していた。いつもと違う道筋だったとしても一度身体から発していったものはお客さんに観られているし、嘘はつけない。その時の気持ちで精一杯修正していくしかない。
 呼吸すらためらうような緊張感の下、劇場の空気感や相手のエネルギーをちゃんと感じ取るために、身体の五感を研ぎ澄まして感覚のアンテナを張り巡らせた。空気が乾燥していることが気になって何度もまばたきしたくなるが、耐えるしかない。
 気持ちを一番込めて演じるシーンでは、身体の末端にある足や指先が震えているのが分かった。自信をなくしていた期間ではこのシーンが難しくて何度も繰り返している。劇場の空気、役者のエネルギー、スタッフの後押し、お客さんの視線、全てをもらって声を発した。まるで音の震えが広がって舞台全体の空間へ広がるのが見えるようだった。自分が考えていた道筋以上のものが出せたし、こんな風に出来るとも思っていなかった。なぜか自然と涙が出た。

 全6回の公演を振り返ると、同じシーンでもうまく出来た回もあれば、うまく噛み合わなかった回もある。だがプロの俳優でも100%がうまくいった公演はないという。公演に関わる全ての人の本気が集まる場所、2時間の公演のために費やしてきた一人ひとりの膨大な時間、これらは効率の悪いことだろうけれど、たくさんの人の熱量が集まって出来る作品はとても人間臭かった。これが僕にとっては心の底から面白いと思えるものだった。

そして、この公演は無事に全日程を終えることができ、終演した。


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