隈研吾読書会② 建築論・実作への展開
現在、研究室・学年の垣根を越え隈研吾読書会を行なっている。第二回のプレゼンターを担当するため、初回の振り返りと、第二回で扱う内容を紹介する。今回扱う著作:『反オブジェクト』『負ける建築』
初回の総括
初回の読書会では主に『10宅論』『建築的欲望の終焉』を扱った。これらは建築家として活躍する以前に、批評家としてデビューしていたころに隈研吾が書いたものである。ここで彼は初めに、アメリカ型の持ち家政策によって戸建て住宅が商品化し、人々の中で「住宅私有の欲望」が搔き立てられたことを指摘し、その結果住宅・そして建築が大衆的な欲望によって作られるようになったことに批判的な立場をとることで、ここから論を批判対象を建築家の作家主義へと展開していった。つまり彼の問題意識は、建築が社会大衆的な欲望によって成立してしまっている状況における建築家のふるまいにあった。
ディスカッションでは、隈研吾は社会状況の中で建築をとらえようとする姿勢は以後変わることがないことと、また彼の言説と作品は表現は違えど、一括した論理をその時の社会状況にどう位置付けるかのみで成立しているのではないか?といった論点が主に取り上げられた。
一方で、隈研吾は磯崎新と比べて建築をメタレベルで語らなくてもいい時代に生きていることを自覚しているのではないか?隈研吾は批評することで間接的に自己の活動を正当化しているのではないか?といった指摘から、メディアだけでなくや建築を学び始める前は我々も隈研吾に好意的であるが、建築を学ぶうちに批判的に感じてくるのは何故なのか?といった誰もが共感すべき指摘もあった。
反オブジェクト
前回までで隈研吾は、近代建築が限界を迎え、消費社会に呑み込まれてしまっている社会状況の中での建築家のありようを批判してきたが、設計論へと展開するにあたって批判対象をオブジェクトという言葉で呼び、それに対する批評として設計活動を行っていく事になる。
このように書いている通り本書では1995年前後の彼の実作を取り上げる中で、以上の思考の中でどのように建築を作っていったかが語られている。
しかし、初回のディスカッションの中でも、隈研吾カプセルガチャを例としてとりあげ、隈研吾はオブジェクトを批判しながらも、彼の実作はオブジェクティブに社会で消費されているのではないか?という指摘があったように実作と彼の作品については矛盾する点があることは否めない。
つまり、彼自身、実体としての建築は建築家の意図とは無関係にオブジェクトとして消費されてしまうことは承知の上であり、さらに彼の言説も心の持ちようであるかのような語り口で語られている。一方で彼のそういった自己への批判さえも許容するスタンスが威圧的な建築と建築家に対するものだともとらえることができるのではないだろうか?
環境と対象
研究室のゼミ中に先生が坂本研時代に聞いた話として以下のような話を取り上げてくださったことがある。自分の中でも少し記憶が曖昧である点は留意していただきたい。
目の前にいる先生が研究室に置いてあった黒電話を手に取って、黒電話について話をする。私たちはそれを聞いているとする。その時その黒電話はもう「対象化」され、一方で以前の研究室の片隅のおかれた状況では黒電話は「環境化」されていたという話である。
この話で着目すべき点は物体が対象であるかは、物体そのものの問題ではなく、それを認知する我々のほうにあるということである。
つまり、作成した物体が環境化するか対象化するかは設計者の意図とは無関係ではないものの完全に一致することはない。隈研吾の話で戻ると、彼の求める反オブジェクトを”なるべく対象として認識されないもの”であると捉えると、それは隈自身が規定できない以上、心の持ちようのようなレベルでしか語れないのは必然なのかもしれない。
近代とは何か?
まず本書において隈研吾が近代について言及している箇所を取り上げる。
また演劇と建築の関係を述べる中で、モダニズムとポストモダニズムについて述べている。
隈研吾の社会状況の中で建築を捉えるという姿勢は『建築的欲望の終焉』の頃から一括しているが、近代と近代主義を批評することで建築を作ろうとしたと考えられる。ここで環境と対象の話に戻ると物体の対象、或いはオブジェクトとしての認知は近代的な我々の視点によるものであると考えられる。つまり彼の作品が実体の水準でオブジェクトであるかどうかという批判は陳腐な問題であり、さらにはそう考えてしまうことが我々の近代的な視点のせいであると彼に指摘されているようにも感じてしまう。彼自身がそこまで考えているかどうかはわからないが、威圧的な建築家像と共に建築設計伴う責任の一端さえも手放そうとしているのかもしれない。
設計論として
彼は、哲学、演劇、美術史と様々な分野を取り上げながら、前述のような一貫した思考を異なった言葉で紡ぎあげていく。マテリアルへの関心とそれらが組み合わさることで、消去・誘拐・極小と彼が称する所作によって建築やインスタレーショの設計のプロセスが語られている。しかし、具体的なそれらについての言及は彼の場合ほとんど意味をなさない。
負ける建築
これは本書の導入部に書かれていることであるが、『反オブジェクト』と主張は変わっていないことがわかる。一方で構成として前書と異なり、自身の作品をもはや取り上げることなく雑多なテーマが語られる。
社会状況の中で建築を捉えていた隈研吾が設計する対象が大きくなっていく中で、阪神淡路大震災、オウムのテロ、9.11を踏まえて彼の思考が書かれている。しかしながら彼自身の提案はそこには見えてこない。
俯瞰的な社会認識
隈研吾自身、巨大化する建築が悪とされることに自覚的であり、はじめに大衆に沿う認識されるまでの経緯を経済政策と建築との関係の中で述べている。さらにはそこから話を展開させバブルにより加速されたマネーゲームとしての「建築の商品化」と、その商品としての顔に必要であった図像性と凡庸な平面計画の末にポストモダニズムが生まれたという隈研吾なりの歴史的な解釈について語られる。これらは『反オブジェクト』と比べるとより俯瞰的な社会状況の解釈である。その結果、主体と客体といった哲学的な議論からは離れることになっている。前述した通り、これは設計対象の規模が大きくなることでマクロな視点へとシフトしていったのだと考えられる。
「公」から「私」へ
ここで「私」とは等身大の自分で家をデザインしたいと思うような根源的な創造性のもつ建築家を指すのであろう。隈研吾は丹下と磯崎を「公」的建築の担い手であり、「私」であった安藤忠雄をブランドに依存していると隈は指摘している。
そうした中で隈研吾自身が己が「公」ではなくて「私」として設計活動を行うためには、マテリアルへの関心が必要不可欠であったのかもしれない。外部から彼自身もブランドと化しているという指摘をされても隈自身は様々なマテリアルをもちいた創造行為への関心の中で、建築設計を行っていると自信を納得させてしまうことができるように思われる。
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