重たいマスクを外してみれば文明改化の音がする。

ちらほらとマスクを外している人が街中で見受けられるようになった。
それに伴い、周囲の目線をチラチラと伺いながら私も時折マスクを外す。
数年前まで当たり前だったことなのに、なぜか少し恥ずかしく、少し図々しくなった気持ちになる。
初めてパーマをかけて地元を歩いたあの日や、初めてシャツをタックインして大学に行ったあの日の気持ちに近いように思う。
それらと違うのは、以前までは当たり前だったという点。

当たり前のものというのは、いつまでも側にあるものではなく、案外そっけないように思う。
永遠の友達のように感じていても、高校に入るやいなや希薄になってしまう中学のクラスメートとの関係に似ている。

同窓会で久しぶりに会って、当時の恋人とヨリを戻したり、友情を思い出して「地元卍」を取り戻したりするように、マスクを外したことで思い出したことがある。
それは、小さなコミュニケーションの存在とその多さ。

私は昔からよく人に話しかけられる。
宗教勧誘は日常茶飯事。道を尋ねられたり、居酒屋で隣のおっちゃんに絡まれたり、急に知らない人に相談をされたり、ホストの勧誘などもあった。
鈴木福くんと千鳥のノブさんを足して2で割ったような人畜無害な見た目がそうさせているのか、思ってもみないコミュニケーションが多かった。

しかし、新型コロナウイルスという黒船が来航したことで、史実とは逆にマスクを強いられるという鎖国政策を取らざるを得なくなった。
不織布1枚という薄い隔たりは、思いの外コミュニケーションを妨げていたのだと今になって感じる。
声がマスクで籠もってしまう上、表に出ている目元だけでは人相や機嫌を把握することが難しい。
それらが、コミュニケーションを必要最低限のものに留めさせていたのではないかと思う。

マスクを外すことは、いわば開国である。
散切り頭に向けられる目線は冷たいものではなくなってきている。懐かしくも新しい文化を受け入れようとしているのか。
そして、以前のように街中で話しかけられることが増えた。
以前は何も思っていなかったが、どうやら私はこの小さなコミュニケーションのことが好きなようで。
旧友に会った時さながら、ふっと口角を上げてしまう。

新型コロナウイルスがもたらしたことは決して悪いことだらけではない。
そういった言葉は綺麗事だと思う。
本当に厄介で、多くの人が亡くなり、例外なく皆が苦しめられた。
ただ、「当たり前」が持つ「当たり前ではない」側面に気づけたことはコロナ禍というマイナスからコロナ前である0に立ち直る以上のことなのではないかと思う。

たまに後ろを振り返って、こうして気づいていくことが大切なのだとそう思う。

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