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瀬地山角『炎上CMでよみとくジェンダー論』-Claimer, Flamer and Criticizer-

まず最初に本書の公式紹介ページと概要のリンクを掲載しておく。

0. 導入
インターネットを観測していると、文系の学問、とりわけ社会学や人文学の学者たちの力強い発信がよく目に入ってくる。学者としてというより一人の成熟した個人としていかがなものかと思う罵詈雑言、学者どうしの相互チェック機構がうまく働かないことにより垂れ流された個人の妄言が訂正されないこと……。今回取り上げるジェンダーの領域は、統計的または科学的な確からしさよりは個人の見解が重要視されるように思える。本書は筆者の個人的意見が多く、私としては納得できるところはほとんどなかったし、一般に人に伝えてよいとは思えない行動を武勇伝のように語られている部分にはあきれた。このような人間を雇っている北海道大学や東京大学(著者略歴による)の懐の深さには感服するし、ジェンダーの領域はそもそもこのような人物が集まりやすいものなのかは少し興味がある。今回の投稿では、本書で取り上げられたCMを実際に見て、筆者がどのようにとらえたのか、その認識にツッコミを入れるとしたらどのようなものになるかを書いてみたい。
先に私の意見を述べると、本書は筆者の「思い」が前に出ているためこれをジェンダー学者の一般的な意見だと認識することは危険である。表現方法や表現規制をどのように考えるかという一般的な問いに対して筆者の見解が正しいとは限らない。私は学生時代から社会人に至った今でも文献をよく読む。文献を読み批判的吟味をするときのコツは「筆者に誘導されないこと」である。筆者の論の進め方から切り離して図表だけを読む、引用されている情報(今回はCM)を自分でも確認する、という態度は大切である。文献を読むことが仕事の一つである人は、査読が入った文献であってある程度の学問的正しさが担保されていたとしても批判的吟味をする。査読のない一般書であればなおさら批判的に読まなければならない。「うそはうそであると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」というひろゆき氏の言葉があるが、筆者は自分の言いたいことのために事実を捻じ曲げている可能性があることを忘れてはならない。どのような媒体に対しても「うそかもしれないと見抜こうとする」態度は重要だろう。
筆者が東京大学の講義で「頭おかしいから精神科行った方がいいですよ」という「冗談」を言ったというSNSの投稿をきっかけに、筆者が講義の場で釈明するというニュースが2022年にあった。これもひとつの炎上であるが、本書のように炎上を批評していた人自身が炎上した際にどういう行動、態度に出るのかを知るための貴重なサンプルであると思う。本件については東大学生新聞のホームページを参照すること。

1. 実例① 1975年 ハウス食品「シャンメン」の「私、作る人。僕、食べる人」

おそらく成人の女性と女児が「私、作る人」と言ったあとに、男性が「僕、食べる人」と言っている。このCMに関する本書の言及を引用する。

このCMについては、市川房枝も参加する「国際婦人年をきっかけとして行動を起こす女たちの会」が、不買運動をも辞さない態度で猛抗議。1か月ほどでCMの放送は中止されました。私はそのとき小学校6年生。母親からどうして問題になるかわかるかと聞かれて、「料理をするのは女性と決めつけてるから」と答えたのを鮮明に覚えています。
(中略)(味の素やムーニーの事例を挙げている)
描く女性像があまりにも女性にのみ負担を強いるようなもので、単にそれを「大変ですよね、わかってますよ」といっている。つまり家事育児における男性の不在を所与のものとして扱った上で、女性の苦労を描き「応援」したのです。サッポロ一番のような「半歩先」(Kogawaの注:2015年放送。母親が残業し、父親がインスタントラーメンを作るもの)という感覚を与えず現状を追認するだけになっています。これは少しタイムスパンを長くとれば、1975年のシャンメンのCM「私、作る人。僕、食べる人」とあまり変わりません。男性不在への視点が欠けていたために、その不在を所与として疑わない女性からは支持されたのかもしれませんが、それに疑問を持つ人たちから少なからぬ反発を招いたわけです。

実際にCMを観た私の感想は以下のとおりである。これを執筆している時点からみて50年近く前のCMに現代の考え方をそのまま適用してよいかという疑問はあるが、適用して考える。
小学生の筆者のいう「料理をするのは女性と決めつけ」ているという指摘はあたるのだろうか。(1975年当時の)現状の追認が問題とするならたとえば男女を入れ替えた「僕、作る人。私、食べる人」は歓迎されるのだろうか。そもそも「私、作る人」を企業の考えとみなしてよいのだろうか。
筆者は現状の追認を問題視しているが、その着眼点も疑問である。CMから離れて一般的に考えると、女性が料理を作ることが多いという現状に対するアプローチは、複雑な作業のいらないインスタント食品や冷凍食品など料理の手間を減らすことや、将来的に男性も料理を作ることが当たり前になるような意識づくりやサービスを提供することなどがあると考えられる。ハウス食品は前者のアプローチを前に出したCMを制作したが、これは必ずしも「料理をするのは女性である」ということを意味しない。CMを見た「女たちの会」や筆者がCMに描かれていない背景から勝手に企業のメッセージを作り出しているにすぎない。また、サッポロ一番のような「半歩先」のCMでないといけないという合理性もない。
もし男性が女性に対して「あなた、作る人」と言ったら、それは料理をするのは女性と決めつけていると解釈するのは理解できる。しかし、自発的に「私、作る人」と言っているのだとするとそれは決めつけではないのではないか。つまり書いていないことを読み取ろうとする、行間を読み取ろうとすると決めつけという思考に至るのではないかと思う。「サイゼで喜ぶ彼女」でも、マンガやイラストの投稿者が何も言及していないところについて行間を読みすぎ、論争の火種になっていた。

CMの描写からは、姉妹が一緒に家族の分のラーメンを用意しているというほほえましい解釈も可能に思う。このような解釈を採用すれば「料理をするのは女性と決めつけ」ているという結論にはなかなかたどり着かないのではないだろうか。1975年当時「女たちの会」の抗議は文字通りclaimで済んでいただろう。もし現代でSNSにて「あのCMはジェンダーの観点からアウトだ」と投稿したら、claimがflameになりかねない。抗議する人claimerがインターネットで不特定多数の正義感をくすぐって、論点が整理されていなくても「問題」であるように見せることができれば、claimerは炎上させた人flamerになる。理論的な批判者criticizerとは程遠い。Flamerは「女たちの会」のような団体として統率されたものではないから「私は意見を言っただけで何の責任もない」と逃げることができる。

「男性不在への視点」については、本書ではシャンメンは主な議論の対象ではないため、味の素のCMとまとめて述べる。

2. 実例② 2012年 味の素の「日本のお母さん」

このCMに関する本書の言及を引用(一部省略)する。

まず止めるポイント①、石器時代の箇所です。お母さんが肉を焼いていて、ふたりの子供がよだれを垂らして待っているのですが、「こんな証拠どこにあるんですか?壁画かなんかにあったんですか?」しかもお母さんと子どもふたり。こんな時代に母子家庭ですか?この肉は誰が獲ってきたんでしょう?なぜお父さんはそこにいないの?残業中?
(中略)
ポイント②は子どもたちの「いただきます!」のところです。よく見ると画面の後ろにパジャマ姿のお父さんがソファーに座りながらノートパソコンをいじっているのがぼんやりと映っているのです。保育所に送る朝は、時間との戦いです。どうして家事に関わることなく、パソコンをいじっていられるのか?よっぽど仕事が忙しいのでしょうね。
(中略)
次に子どもたちが保育園でお弁当を食べるシーンが出てくるのですが、ここがポイント③。お母さんが早起きして作ったお弁当は、なんとキャラ弁です。制作サイドはご存じなかったのでしょうか?「どこの保育園にお弁当がありますねん?」
(中略)
くわえて、気になるのは「亡霊(Kogawa注:父親のこと)」のその後です。出勤前に、子どもの着替えの手伝いをする場面が、ワンカット入っているのですが、夕食時にその姿はありません。夕食はお母さんと子どもふたりだけ。ここがポイント④。「『亡霊』いなくなりましたね。ここは母子家庭で、母子家庭のお母さんを応援するっていうCMなんでしょうね」。ここもまた、必ずウケがとれる箇所です。
(中略)
このCM、二つの観点から問題を掘り下げてみようと思います。一つは本書でくりかえし出てくるジェンダーとの関連で、ごはんを作るのがお母さんだという点。もう一つは手作り信仰を生み出す「食育」との関連です。

単純にエビデンスの不足を追及する以外の観点では、①の石器時代の描写は特に問題視しなくてもいいかもしれない。詳しくは歴史の専門家に教えていただきたい。「家族」という形があったかもわからないし、多くの人が共同生活を営む中で血のつながった人とともに食事をする文化があったかどうかもわからない。筆者は父親らしき人物が画面に表れていないことが気に食わないようだが、狩りの続きをしていたり、ともに狩りをした仲間たちと食事しているかもしれない。逆に現代の「家族」の考え方が石器時代にあったということは壁画にでも残っているのだろうか。
②は、海外とのつながりがあれば朝の時間帯に仕事をすることは不思議ではない(日本の朝はアメリカの夕方である)。①で画面にいなければ文句をいい、②で画面にいても家事をしている描写がなければ文句をいう。「日本のお母さん」というテーマが設定されている以上、このような演出はしかたない気もするのだが……。いちゃもんをつけるならパジャマ姿の人が「お父さん」であることも断定できないのではないか。
③はお弁当を用意することが通常ないことが事実であるならこれ以上のコメントはない。しかし、認可外保育園は調理設備の設置が義務でないようであり、ここに通園する場合はお弁当を持参することに不思議はない。個人的には、筆者のこの指摘は坊主憎けりゃ袈裟まで憎いに近いものは感じる。
④は父親が家事をしないことについて批判しているととらえてよいだろう。確かに、家事や育児が女性の役割と決まっていないし、お金を稼ぐことが男性の役割と決まっているわけでもない。しかし、それぞれの家庭でどのような役割分担をするかどうかまで外野がケチをつけていいわけでもない。筆者の隣の家庭がこのCMのような状態だったとして、筆者が「なぜおたくのお父様は家事や育児をなさらないのですか、遅れていますよ」と言えるならば主張を受け入れてもいい。また、両親が離婚した家庭など、いわゆる理想的でない家庭で育つ子どもも少なからずいることを考えると、両親がそろっているCMをみるとそうでない家庭で育つ子どもがかわいそうだ、という指摘も考えられるが、ジェンダー論者はこの観点を無視している。

2つの例を見てきたが、本書全体、あるいはジェンダー平等を掲げる人の主張にはよく「その表現は旧来の男女の役割分担を固定化するおそれがある」という内容が含まれる。このCMの場合は「この企業は、母親は仕事だけでなく家事や育児をしているのに、父親は仕事だけをしているという現状を追認している。そのような表現は認められない(企業のためを思って言っているのだ)」となる。そのように主張するならば、自然科学的な発想に立てばなにか実験や研究を行い、表現に触れた人と触れない人を比較して、触れた人の方が旧来の男女の役割分担の固定化の傾向があることを示さなければならない。しかし、私が観測する範囲ではSNSやブログなどで熱心に発信される社会学の大学教員らが学術的なデータをもとに個別の案件を論じている様子は見て取れない。ジェンダーを含む「社会学」が「社会科学」とはあまり呼ばれないことはこういうところに起因するのかもしれない。本書は一般書だが、より専門的な本でも批判的吟味をすると内容が疑わしいケースもあるようである。

④で「母子家庭ですかね」という筆者のギャグがあったため、日本におけるひとり親世帯について少し調べてみた。2021年1月1日時点の世帯数はおよそ6000万世帯、2016年のひとり親世帯はおよそ140万世帯である。集計時点は違うが参考として全世帯数におけるひとり親世帯の割合を計算すると、およそ2.3%である。ひとり親世帯のうち、母子世帯は86.8%である。

https://www.soumu.go.jp/main_content/000762474.pdf

全世帯には単身者や子育てをしていない世帯も含まれるため、それを除いた子供を育てている世帯のうちのひとり親世帯の割合は2.3%より大きいことが推測される。割合としては少数派ではあるが、小学校の学年に一人はひとり親世帯があってもおかしくはない。現在の状況からいうと、ひとり親世帯、特に母子世帯は無視できるほどのマイノリティではない。これをふまえると、父親(亡霊)が出てこないことについて「母子家庭ですかね」とウケをとろうとするのは、両親ともにいる家庭が多数派であり、それによってひとり親世帯がマスクされていることに気づかず追認することにならないのだろうか。同性婚状態の二人とその子どもが味の素のCMに登場して、どちらか一方があまり家事や育児をしていないような描写であったとき、どのような指摘をしていたのだろう。

4つのポイントを概観したときに述べたものと以下は一部重複するが、私は、フェミニストやジェンダー平等論者がむしろ旧来の男女の役割分担に縛られているのではないかと思う。社会全体として旧来の役割分担に縛られないようにすることは同意するが、それをどんな製品のCMでもジェンダー平等を推奨するような表現をしなければならないのか。ここまでの例で見た食品のCMで旧来の役割分担が顔をのぞかせていたとしても、それが企業の考えであると決めつけることは難しいはずだ。また、役割分担に縛られないながらも結果的に旧来型を選択する人に対して「あなたの選択は、私の持っている新しい考え方にはそぐわない」という指摘(claimやflame)は的外れだし、旧来の役割分担が頭にこびりついていない人からすると、自分の選択や考え方とちがいがあっても「自由にやったらええやん」で済んでもよいはずだ。フェミニストらの敵をつくるような言動、あるいはpolitically correctな考えを啓蒙してあげるという上から目線は改善すべきだ。もしかすると、実際は、個人としても学問としてもジェンダーの思想や流派が体系化されておらず、ジェンダー論者にこういうことを望むことは無駄なのかもしれない。

3. 筆者の表現狩り講座
本書の主な内容についてはここまでで論じたことで終わらせたい。他にもツッコミをいれることのできる部分は多々あるが、1つだけ筆者による表現狩り講座があったため紹介したい。本書の抜粋が以下のURLから読めるため、このnoteでは要点のみ書くこととする。

東京オリンピック・パラリンピックのおもてなしのアイデアを募るIDEA for TOKYOという企画のコピーが以下のものであった。

《世界中の人が東京にやってくる!
僕らの“おもてなし”って何だろう。
どうしたらみんなが喜ぶだろう。
ふとした嬉しい心配り?
あっと驚かせるテクノロジー?
ワクワクするような楽しいイベント?
どんな人にも親切な仕組み?
新しい視点で。瑞々しい力で。考え抜こう。
「東京って最高!」って思わせる僕らのアイデアを!》
筆者は「僕ら」が性別を男性に限定するものとして、主催団体(東京都から委託されている)に抗議のメールを送る。主催団体からの返答について、筆者は以下のように述べている。
自信満々で「なんの問題もないですよ」といわんばかりの返答です。全然わかっていません。メールを読んだ瞬間に「あ~ぁ、やっちゃった」と思ってしまいました。
その後もやり取りは続き、最終的には東京都のオリンピック・パラリンピック事務局から「委託事業者には広報物が適切でないことを説明し、速やかな撤去を指示いたしました」というメールを受け取る。これについて筆者は以下のように述べる。
詰み筋が見えていた、と書きました。最初の返事が来たときに「あ~ぁ、やっちゃった」といったのは、最後はこうなることがわかっていたからです。さすがに東京都は早く問題を理解したようですが、この委託業者は理解度が低いとしかいいようがありません。「東京都から回収指示」とあるように、この段階まで問題が理解できず、指示を受けて動き始めています。ただ、これを見た瞬間に「まずい」と思わなかった東京都の感覚もいかがなものかと思いますが。

業者が東京都よりも先に問題を理解して回収すべきかどうかを検討したとしても、受託側という立場の関係で「業者の判断で回収することとした」ということはできない。東京都は委託側として回収を指示するという役を演じるし、業者は受託側として指示に基づき回収するという役を演じる。そのためどうやっても「東京都から回収指示」という表現になるだろう。筆者のアカデミア外に対する認識の解像度が低いことを示しているだけではないだろうか。

4. まとめ
本書は、自分でCMを見て、筆者との見解の違いについて考察することで味わいを堪能することができるものと思った。冷ややかに「そういう考え方もあるのか」程度にとどめ、参考文献等も利用して理解を深めることが知性であろうと思う。
本書とは関係ないようだが大学院選びについて書いてみたい。私は大学院に進学していないが、大学院の場合は学部ほど学校名がブランドにはならないものと考えている。研究者目線なら、学校名よりはどの先生のもとでどのような分野を専攻したかが興味の対象になるだろう。よい研究者が偏差値の高い大学に集まるわけではないはずだ。私の専攻の薬学および関連分野では、リードしている先生の所属は多様で、別に旧帝大に集中しているわけではない。学部と同じ大学の院に進学するべきかどうかはよく考えた方がよいと思う。自分が東京大学の学生であったら、少なくとも筆者の研究室には進みたくない。

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