釈尊の真意を知りたい、という想いが仏教の歴史を紡いできた
仏教について論書が延々と書かれ、教学が研鑽されてきました。
これは、当然、釈尊の悟りとは何か?真意は何かを探ろうという営みにほかなりません。
つまり、菩提樹の下、金剛座で得られた事はなんであったのか?ということです。
現代人からすると「それは、初期の経典を読めばよいのでは?」と思いますが、そうも言い切れない。
そもそも悟りというのは「体験」ですから言葉にならない。
(神秘的な事を言ってるわけでなく、味、香り、感覚も言葉にできませんよね?)
それを弟子に伝えようと、同じ経験をさせる修行の方法を伝えたり、うまく理論化して、(四諦八正道のような)説明されているわけです。
ただ、それはそのまま釈尊の真意かと言うと、わからない話です。
それは、例えば弟子のために、何かしらの理論と実践体系を作った名人がいたとして。
その理論と体系がその名人のすべてであるか?というと、そうは言えないでしょうから。
少なくとも、残されている通りに実践すれば、苦から開放される。
それは、多くの人が確認しているわけですが。
その先の事はわからない。
ある点では。
大乗仏教、密教というのは、釈尊の真意、そして体験を、探求する営みが形になったもの、という風にも言えると思います。
そして、長い仏教の歴史の中で、理論と実践共に、試行錯誤を繰り返しつつ、徐々にその答えに迫っていきました。
それが、確かに事実であるかは、実証不能なことでしょうけれども、
大枠としては、一定の方向へ向かって発展していった。
つまるところそれが
中観・唯識ということで
象徴として表現すると密教、ということなのだろうな、感じています。
つまり「釈尊の真意は何か?」をテーマに仏教の歴史が築き上げた体系なんでしょうね。
そして、その過程で見いだされた多くのことが人々の癒しになり、助けになったというのは、これも釈尊の働きと言えるのではと思います。
それでは、また共に仏教を研鑽していければと思います。
何卒宜しくお願いします。
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