グロさは寂しさなんだよ、という感覚について。

たとえば水の入ったコップがあるとする。
水が生命で、コップそのものが肉体。

水を飲み干したとする。
生命が失われたので、これは死んだことになる。

コップが割れたとする。
生命が失われるので、これも死んだことになる。
飲み干したときと結果は変わらない。

ただ、空のコップと割れたコップを見比べたとき、「どうしようもなさ」は割れたコップのほうがより強く感じられる気がする。
この「どうしようもなさ」や「取り返しのつかない感覚」こそが寂しさであり、グロさの意味はここで担保できる気がしている。

となると、グロさが希望につながるパターンも有り得る。「もうどうにもならない」「絶対に元には戻らない」という感覚を飲み込むことで前を向けることもきっとあるからだ。つらいだろうけど。

ただグロいだけの描写が、これまで好きになれなかった。生理的に苦手ということではなく、死の描写として必然性がないような気がしていたから。

これからもただグロいだけの描写は好きになれないと思う。ただ、その死に寂しさを乗せたり強調したりする意味で行われるのであれば、すんなり受け入れられるんじゃないかと、いまは思えている。

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