『アメリカン・ユートピア』感想

【注意】
1.ネタバレがあります
2.とても長いです

映画『アメリカン・ユートピア』概要


映画『アメリカン・ユートピア』は、デイヴィッド・バーンの同名ソロ・アルバムを原案とするブロードウェイ・ショー『American Utopia』のスパイク・リー監督による映画化作品である。舞台背後と左右を覆う簾状のカーテン以外はほとんど何もないステージで、グレースーツに裸足という姿のメンバー総勢12名が生演奏し、ときに行進し、ときにフォーメーションを組んで踊る。楽器はエレキギターやキーボードを含めてすべてワイヤレスでケーブルの類はなく、演奏はマーチング・バンドスタイルで行われる。メンバーのダイナミックな動きもこの舞台の魅力のひとつだ(『This Must Be the Place』におけるバーンの、ちょっとふかわりょうっぽいダンスも楽しい)。

デイヴィッド・バーンは言うまでもなくトーキング・ヘッズの中心メンバーであり、このステージのセットリストにもソロ・アルバム『American Utopia』だけでなく『Born under Punches』『Once in a Lifetime』『Road to Nowhere』などトーキング・ヘッズの代表曲が含まれている。

デイヴィッド・バーンの声


それにしても、70歳に手が届こうかというデイヴィッド・バーンの歌声が老いてますます健在であることに驚かされる。特にテクニカルに上手いシンガーというわけではないけれど、鋭く神経質な印象だった若い頃よりも声が少し太くなり、朗々として開放感がある。なんというか、とにかく声が明るい。

デイヴィッド・バーンの楽曲


トーキング・ヘッズ〜ソロ作品を通じて、デイヴィッド・バーンの楽曲の特徴のひとつはコード/メロディのシンプルさだと思う。ほぼワン・コードのループ+エスニックなポリリズム+多重フレーズのコーラスが特徴の『Remain In Light』収録の曲だと少し分かりにくいけれど、バーンの曲は基本的にシンプルなギターリフを基調としていて、ブルージーな7th以外のテンション・コードはあまり登場しない。ニューウェーブバンドとして知られるトーキング・ヘッズだが曲調は案外素朴でアーシー、コード展開も多くは明快で、きれいに解決する。メロディもスケールから逸脱することはあまりない。これはロックやポップスというよりもカントリー&ウェスタン、いやむしろ『ドレミの歌』とか『山口さんちのツトム君』といった童謡に近い特徴だ。バーンの声とシニカルでシュールな歌詞と童謡風の牧歌的なコード/メロディの組み合わせは、聴く者に奇妙なねじれの感覚をもたらす。これは、パンクだ。メロウ・ソウルやシティ・ポップのようにメジャー7やディミニッシュなどを多用すれば滑らかで洒落た印象にはなるが、その分曲の「強さ」は削がれるだろう。バーンの曲のシンプルさは、彼流のパンク・マインド、メッセージを届ける強さなのだ。

繋がり


『アメリカン・ユートピア』は「Here」から始まって遥かなる「Nowhere」に至るひとつの旅(の途上)であるのと同時に、誕生からいつか訪れる「ある晴れた日(One fine day)」へ至る旅でもある。1曲目『Here』でバーンは脳の模型を手に歌い、MCではヒトの神経細胞の繋がりが新生児のときにもっとも多く、成長につれて減少するという記事の引用から「我々は成長するにつれてどんどん馬鹿になっていくのか?」「そしてバカの高止まり(プラトー)に達するのか?」と発言して観客を笑わせる。しかしその後彼は、我々には失われた神経細胞の繋がりの代わりに「他者との繋がり」があるのだと語る。

思えばバーンと11人のメンバーが演奏する様は「他者との繋がり」そのものだ。マーチング・バンドのスタイルをとってはいるが、彼らの動きは軍の規律を感じさせるようなものではない。それはもっと曖昧で自由で親密なコミュニケーション、例えるなら原始的な部族の祭りのようなものだ。演奏中、メンバーたちは頻繁にアイコンタクトをとり、(それはもちろん演出だけれど)ときには他のプレーヤーのパーカッションを叩いたりする(『Born under Punches』)。音楽そのものが祝祭であった時代の名残りのように、言語不要の繊細なコミュニケーションとして。

残念ながらこういう人間なので


『Everybody's Coming To My House』の演奏前のMCで、デトロイトの高校合唱部が同曲をカヴァーしたエピソードが語られる。「この曲の歌い手は我が家への来客を微妙に不快に思っている。歌詞にはなくても感じ取れる、いつ帰るんだ、と。対照的に彼ら(高校生たち)のバージョンには(歌詞もメロディも変えていないのに)誰でも迎え入れる包容力がある。僕もそっちの方が良い。でも残念ながらこういう人間なのでね」つまりこれは「寛容」についての曲なのだ(このカヴァーバージョンはエンドロールで聴くことができる。バッキングはピアノのみ、ブルージーでエモーショナルで本当に素晴らしい。サントラに入ってないのが残念!)。この曲のMCでは移民についても触れられる。バーン自身が幼い頃アメリカに渡ったスコットランド移民であること、メンバーたちのルーツが様々な国にあること。ユートピアとはつまるところそのような「Everybody」にとっての「My House」なのかもしれない。

Say his/her name!


この映画のひとつのクライマックスはおそらく、ジャネール・モネイの『Hell You Talmbout』のカヴァーだ。ヘイト・クライムによって理不尽に命を奪われた人々の名前を叫び、オーディエンスに対して「彼/彼女の名前を言え!」と要求するこの曲を取り上げるにあたって、バーンはモネイに「年配の白人男がこの曲を歌って良いか」と聞いたという。バーンは自分が「年配」で「白人」で「男性」という圧倒的なマジョリティであることをはっきりと意識している(当のモネイは「全人類に向けた曲だから」という理由でカヴァーを快諾した)。この映画の監督がスパイク・リーであることの意味も、インサートされる故人の写真と遺族の映像を観れば明らかだ(バーンは対談で「僕は君の職域を荒らしたんじゃないか?」と気にしていたけれど)。バーン曰くこの曲は「プロテストソングであり鎮魂歌であり、変革の可能性についての曲でもある」。僕個人にも内なる変革が必要だ、と彼は言う。アメリカへの視線は反転し、自分自身を照射する。

世界中のどこにいても有権者登録してください


バーンは政治的には筋金入りの民主党支持者であり、彼の曲にはポリティカルなメッセージを含むものも少なくない。例えば本作でも演奏される『Blind』は抽象的ながら共和党を痛烈に批判する内容となっていて、トーキング・ヘッズの同曲MVのラストシーンには『V-O-T-E(投票しろ)』というメッセージが提示される(と記憶していたのだが、現在YouTubeにある公式MVにはそのシーンがない。記憶違いかと思ったが後に削除されたようだ)。『アメリカン・ユートピア』の中でもバーンは投票率の低さを嘆いていて、ステージ上から観客に有権者登録を呼びかけ、作品ラストにも同様のメッセージが提示される。スクリーンには「UTOPIA starts with U」の文字が映し出され「U」が「YOU」へと変化してこの映画は終わる。

希望


映画終盤でバーンは、ジェイムズ・ボールドウィンの『まだこの国にはいまだかつてない改革の余地があるはずだ』という言葉を引用する。そして、僕らはいつだって未完成で、でも例えそうだとしても脳は変化しうること、そして幼い頃に失った繋がりは他者と繋がることで蘇らせることができるということを語る。彼はアメリカ社会の分断を憂慮しているのだ。

バーンは「希望」について歌う(Hope,I have hope 『One fine day』)。白人の年配男らしく幾分シニカルに、しかし知的に、ユーモアを交えて、できる限り誠実に。それはまるでマーク・チャップマンに射殺されなかった架空のジョン・レノンが歌う21世紀の『imagine』のようだ。そして楽屋口から出てきたデイヴィッド・バーンは自転車に跨り、エコロジカルに颯爽とニューヨークの街へ走り去っていくのであった。

ブレないね、この人は。

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