『偶然と想像』『春原さんのうた』感想その2

注意1:ネタバレがあります
注意2:とても長いです
注意3:あまりにも長いので2回に分けました

『春原さんのうた』概要

『春原さんのうた』は東直子の歌集『春原さんのリコーダー』の表題歌を原作とした映画作品である。

『春原さんのうた』とテキスト

さて、それではそもそもテキストである短歌が原作の『春原さんのうた』についてはどうか。

この映画におけるテキストの強度は、意味的な首尾一貫性、説得性という側面からすれば、はっきり言ってめちゃくちゃ低い。登場人物たちがとにかくみんな内輪の言葉でしゃべり、かつ杉田監督が徹底して注釈的な説明をしないので、鑑賞者はなんだか分からない会話をなんだか分からないまま観ることになる。5W1Hでいえば特に「why(なぜ)」の部分がすっぽり抜け落ちているので、登場人物の行動原理がよく分からない。だから沙知の部屋に2人分の食器があるのを見た剛が急に泣きだすシーンで「この人情緒大丈夫か?」と思わず心配してしまったりするし、沙知が道に迷った女の子の道案内をするシーンでも、なぜその女の子がそこに行きたかったのかもなぜ写真を撮ってほしいのかも明かされないし、そもそも、女の子が何を見ているのかすら(映されないので)分からない。

※この辺りのことについては濱口監督もトークショーでちょっと皮肉っぽく触れていて、曰く「今日観たの2回目なんですけど、1回目に観たときに、あれ、ちょっと途中で考えごとしちゃって見逃したところがあったかな、と思ってたんですけど、今日観たら最初のときもかなりちゃんと観てたってことが分かりました」とのこと。

しかし、分からないまま物語と並走しているうちに朧げに見えてくるのだ。彼らの迂回する会話や短い沈黙の中心に、ある「不在」が存在しているということが。

不在の存在

彼らはとにかく「内輪の言葉」でしゃべる。内輪ならくどくど説明しなくても分かるから、内輪の言葉には省略がとても多い。「ああ」とか「そうだけど」とか「まあな」とか「叔父さん、連絡して」とか「大丈夫だよ」とか。ただそこには、その関係性に特有のトーンがある。剛と沙知には「叔父と姪」の、妙子と沙知には「叔母と姪」の、剛と妙子には「兄と妹」の、それぞれに固有のトーンがあって、3人のシーンではそれが目まぐるしく入れ替わる。杉田監督の、なんならちょっと不親切なんじゃないのと思うくらい徹底的に説明を排除した語りによって、鑑賞者はその「関係性」だけを延々と観続けることになる。

また彼らはやたらと沙知の写真を撮る。彼らは理由を言わないまま「さっちゃん、ちょっといい?」とか言ってスマホを向ける。まるで沙知が現にそこに存在していることを確認するかのように。当たり前だが「写真を撮る」とは目の前に被写体が存在していることを前提とした行為だ。そして被写体が存在しなくなった後も、映像は残り続ける。現に存在している沙知。そのネガとしての「春原さん」。

※沙知も1枚だけ写真を撮る。沙知が撮るのは所在なさげに湖畔にしゃがみ込む剛の後ろ姿だ。沙知はそのとき「そこにいないひと」ではなく「確かに目の前に存在するひと」のことを想っている。

「写真を撮る」ことは、視線を意識化する行為でもある。目の前にあるものや人をよく見ること、それらについて何かを想うこと。そう考えると、この映画の登場人物たちは総じて言葉のロジックよりも「行為」に寄っているようにみえる。写真を撮ること、ある「場所」を訪ねること(剛や幸子の突然の部屋訪問もそうだ)、道案内、書道、台詞のない演劇。そして、そのような想いや視線や行為の交錯する中心に、空白の存在感を湛えた「不在の存在」としての春原さんがいる。

※考えてみれば「不在の存在」なんてのはレトリックの最たるものであって、本来はテキスト以外では成立し得ない表現のはずだが、興味深いことにこの映画では「不在」そのものである春原さんが最初から最後まで映像的に「存在」している。もっとも春原さんの姿をはっきり観ることができるのは映画の外側にいる鑑賞者だけなのだが。

テキストの「身体化」

この作品におけるテキストは、その強度の極端な低さゆえに身体と対置されて緊張関係を形作ることはなく、むしろ行為を通じて脱意味化しいわば「身体化」する。例えば書道。文字の形態が筆を持つ沙知の身体の動きに変換され、テキストは交換可能な記号から、ある「かたち」へ、唯一無二の「書」へと変化する。テキストが「意味を成す」という機能から少し遠ざかったとき、元々持っていた「かたち」や「響き」や「リズム」といった別の要素が前景化する。そのような変化の中心にあるのは、おそらくロジカルな言葉の中では不要なノイズとして処理されてしまうような、多様で微細な感覚だろう。

※杉田監督は、撮影現場ではまず「動線」を決めるという。身体の動き。

aとa’の間に

『春原さんのうた』は、そういう感覚に満ちた作品だ。スクーターのエンジン音の響き(沙知は剛のスクーターの音を聴き分けることができる)。バスケットボールを投げ合うリズムの、言葉のないコミュニケーション特有の親密さ。日常の何気ない会話の中のはっきりとは語られない「想い」。

それらをロジカルな言葉で記述することももちろん可能だろう。けれどロジカルな言葉は、その中の一番大事な何かを取りこぼしてしまう。ロジカルな言葉は意味を固定しようとする。それらはいわばaとa’を区別するための言葉だ。aとa’を区別するためには、両者の間に線を引き、中間のグラデーションを排除しなければならない。ロジックは「分かる」ために存在し、「分かる」とはまず「分ける」ことだから。

一方で「うた」はaとa’の間(あわい)に存在する。

何か(ここではある「不在」)を記述するために、世界から多様で微細な感覚を注意深く拾い上げ、響きやリズムを用いて身体的に表現すること。「歌う」という行為に向かって開かれた「身体化されたテキスト」、それが「うた」だ。

うた

それは理屈の上では「分からない」かもしれない。でも分からないままで「美しい」かもしれない。あるいは理屈など関係なくただ「分かる」かもしれない(沙知の地元の友人・翔子は言う。「うん、わかんないけど、わかるよ」)。

原作となった短歌に戻ってみよう。

転居先不明の判を見つめつつ春原さんが吹くリコーダー

分かるか、と問われれば、分からないことだらけだ。転居したのは誰か? なぜ転居したのか? なぜ転居先が不明なのか? なぜリコーダーを吹くのか? 分からない。でも少しは分かるところもある。葉書に斜めに押されている滲んだ転居先不明のスタンプ、見つめる春原さんの視線、リコーダーの少し頼りない柔らかな音色、そして誰かの、おそらくは絶対的な不在。

おそらくそのようなところからこの映画は出発したはずだ。そして「うたの在り方」そのものを映画にしようと試みたのだ。そうして驚くべきことに、その試みはある程度成功しているように僕には思える。

その意味で『春原さんのうた』は極めて稀有な作品である。

※「分からない」繋がりで忘れがたいシーンがある。沙知はバイト先のカフェの前で道に迷っている女の子に声をかけ、道案内を買って出る。2人は橋を渡り、住宅街へと続く道を連れ立って歩いてゆく。2人の後ろ姿を捉えたカメラが、ゆっくり引いていく。そして、不意に音楽が流れる。その曲にメロディらしいメロディはなく、ピアニカだろうか、引き伸ばされた単音に異なる音程の単音が重なって緩く和音を作る。結構印象的なのだけれど、それにしてもなぜこのシーンにこの曲を? 分からない。何かの伏線を回収するでもなく、後の展開の伏線になるでもなく、この場面以降は全く登場しない女の子と主人公がただ何でもなく道を歩いている、しかもこんなロング・ショットで。鳥肌が立つほど美しいのだけれど、なぜだかは分からない。

※この曲は予告編でもかかるのだが、この曲以外の音声が全くなく、文字情報もほとんどないという、何というかめちゃくちゃ攻めた予告編である。

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