ゆっくり浸かって『春原さんのうた』

 2022年2月4日、『春原さんのうた』を観た。とても良い映画だった。本編上映後、杉田監督と前東京国際映画祭ディレクターの矢田部氏のトークショーがあり、とても興味深い話を聴くことができた。以下『春原さんのうた』について感じたこと、考えたことを記す。

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『春原さんのうた』は関係性を観る映画だ。登場人物たちの会話であれ映像による描写であれ、この映画の中では状況を説明することが徹底的に避けられる。登場人物それぞれの関係性を反映して、言葉は時によそよそしく、時に親しげに交わされる。親しい者たちの言葉には既に了解された内容を省略して、たとえば小さく笑い合うだけで細かな感情をやりとりできる親密さがあって、それゆえ僕たちは外部にいて、自分たちが幽霊になったように仄めかされるやりとりを見守るしかない。

 それらの言葉には響きがあり、リズムがあり、イメージがある。投げ合うバスケットボールのように、二人乗りのバイクの背中の温度のように、下手くそなリコーダーの細切れのメロディのように、ひとり暮らしの夜更けの部屋の果てしない不在感のように。説明はできない。が、共有は響きやリズムを通して行われる。それが「うた」だ。

 杉田監督は、移動する乗り物を後ろから撮影するのが好きらしい。正確には「ご褒美の時間」だとか。前に回り込んで撮るのは移動を邪魔するようで嫌だ、とのこと。監督自らの運転で、助手席に載せた撮影の飯岡さんがどんな画を撮りたいか想像しつつ、被写体のすぐ後ろで少しアクセルを踏み込んだり、ゆっくり距離を開けたりする、その時間が最も無心になれるのだそうだ。対象の動きを妨げず、距離やリズムを少しずつ変化させながらそこにある何かを映像に捕らえてゆくそのやり方は、杉田監督の演出方法、というか映画作りの姿勢そのもののように思える。おそらくそのやり方でないと取り出せない「関係性」があるのだ。

 剛と沙知が二人乗りのバイクで河口湖へ向かうシーン。雨に降られ、レインウェアを着込んで出発した直後、道なりに右に曲がると思いがけなく陽が差して、きらきらと水滴が光る。鳥肌が立つほど美しいシーンだ。それは物語の中では単に途中の場面なのだけれど(しかし考えてみれば僕たちがいる場所はいつだって途中だ)、不思議に強い印象を残す画だった。何か、閃めきのようなもの。それは僕たちが「うた」に出会うとき、たとえば短歌を詠む/読むときに、僕たちの中をほんの一瞬横切る閃めきだったかもしれない。

 短歌の映像化ってこういうことか、と、すとんと腑に落ちた。

「東直子さんにはなれないし、東直子さんと同じようにものを見ることもできない。でも東直子さんの世界に、お風呂のように浸かることはできる」と杉田監督は言う。『春原さんのうた』もまた、お風呂のように浸かる映画だ。映画そのものが「うたう」その響きに、リズムに、イメージに肩まで浸かって、少し開けた窓から見える空にあの閃めきが横切るのを待つ、そういう映画なのだと思う。

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