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震災から11年経過した福島の姿を撮る(前編)

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昨年のクリスマスイブ
未だコロナ禍にあれどそれでも華やぐ東京を後に、夜行バスに乗り込む。
行き先は福島。

『2021年12月25日の私は、確かに福島にいた。』

※今回と次回のnoteは、震災や津波や原発の悲惨さに触れる内容となっておりますので、この事についてショックを受けたり嫌な思いをするかもしれないと思われる方は、この先を読むのをご遠慮下さい。


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0:00過ぎ
人生初の福島に到着。
漫画喫茶のキツイ暖房に洗礼を受けながら、小部屋で仮眠を取る。
明け方、上司と何やら携帯で話しているおじさんの声に起こされ、おじさんが話す声がうるさいとブチ切れているおじさんに慄き、体バキバキで起き上がる私というおじさん。

私は何で今ここでにいるんだろう…


「人生観変わるから、ちょっと行ってきなよ」


福島に仕事で何度も行っている友人が、東京に帰ってくる度に私に福島行きを勧める。
その度に「放射能怖いし、全然行きたくない」って拒否していた。

でも、何度も何度も勧めて来る。
何でそんなに??

しつこさに根負けして
全く気乗りしないまま、試しに体を向かわせてみる事にした。
(福島の方、読まれていたらすみません…)

この旅の目的は
11年が経過した、福島の震災跡を写真に収める事

危険な箇所についての情報は一応抑え、なるだけ先入観持たずに、現在の福島をこの目で見ようと思っていた。

最初に向かうのは
震災遺構として一般公開された「請戸小学校」

いわき駅から常磐線で浪江へ。
どうやら、第一原発、第二原発の近くを通るようだ。
学生や社会人でそれなりに混みあう車内は、東京とあまり変わらない。

海岸線へ出た

どこか酷い状況を想像していたが
予想外に整備されていて、キレイだった。
木々や畑は長閑な田舎を思わさせる。

あれ?
でも何故だろう。

車窓から見える風景には住民と思われる人が映らない。
重機と作業員ばかり。

第一、第二原発付近にさしかかった。
カメラを構えるも原発は山や森に囲まれてる為、撮れずに通過。

残念に思って視線を席の方へ戻すと
いつの間にか混み合っていた車内には、私ともう一人しか乗っておらず静かになっていた。

浪江駅に到着
誰もいないホームに、復興、福島招致のポスターが貼られている。

請戸小学校や原発の近くにはコンビニも食事をする所もATMも無い。

あるわけがない。

津波で多くの”存在”が持っていかれ、放射能で帰宅困難地域となり、東京で当たり前のように享受しているインフラは、
ここには無い。

このiPhoneを壊してしまったり無くしたら、簡単に終わってしまう気がする。
携帯に頼った生活の脆弱さに恐ろしくなる。

タクシーを呼び請戸小学校へ
写真を撮りに来た事を運転手さんに話し、この辺りの状況を聞く。

走って程なく、ビニールハウスが目に飛び込む。
「あそこで、オリンピックで使う為の花を育ててたんですよ。」

(何か復興五輪とか言ってたな…。)

「お客さん、原発には一定の離れた所までしか行けないんですよ。検問が敷かれててその先は一般の人は入れないんです。」

なるほど。
取材申し込みや手続きを踏まないと、原発には近づく事すら出来ないのか。

平野はどこまでも先まで続き、そこにものすごい大きさのメガソーラーが何台も設置されている。
作業員、ショベルカー、トラック、強化された防波堤、何かを詰めた大量の袋

異様な風景に、体が強張ってくる。

この日は寒波が日本列島を襲っていた。
タクシーを降り、殴りつける冷たい風から逃げるように請戸小学校の校内へ。
そして足を踏み入れた。

「……………なんだこれは」

ぐちゃぐちゃだ。

そこには悲惨としか言いようがない世界が広がっていた

重厚な鉄の扉はねじ曲がり、配電盤は倒れかかり、天井は剥がれ落ち鉄骨が露わになり、窓やドアはこそげ取られ、体育館の床は波打って畝りぽっかり穴が開いて、蛍光灯器具には膨大な錆びが浮かび、教室の時計は二つに折れ、資料室の天井は抜け落ち瓦礫に埋もれ、保健室と書かれた部屋らしきものは伽藍堂になっている、、、、



無心でシャッターを切っていた。

仕事でもない、使命感を持ったでもない、好奇心があったわけでもない
それなのに、あの光景を前にしたら、ひたすら写真に収めていた。

津波から免れた2階へ上がると、教室が展示室になっていた。
震災後に書かれた励ましのメッセージが、所狭しと黒板を埋めている。

『負けんな!
共に乗り切ろう!
頑張れ!
東北魂!
いつの日かここに帰れる事を願っています….』
様々な人の思いの様々が記されていた。

3月11日当時
生徒職員は危険を察知していち早く逃げていた為、全員無事だったと聞き会った事もない人達の無事に安堵した。

雨が降って来た。
校舎の入口(だった場所)のボロボロの壁に、子供達が笑顔で砂浜を駆ける絵画が掛かっている。
カメラを向けるとレンズに付いた雨粒が乱反射を起こし、空から子供達に光の輪が降り注いでいるよう。

子供達が笑顔で請戸の砂浜を駆ける日は、いつになったら戻ってくるんだろう。

小学校の周りは、ずっと先まで続く平野と電信柱以外のものが見当たらない。
今までここには色んな景色があったんだろうな。
ここで生活を営んでいたいつもある風景や命が、あっという間に無くなって
それでも何とか生き残った人達は、どんな思いで11年生きてきたんだろうか。
あの時、東京にいた自分には想像する事も出来ない。

でも
想像も出来ない事は、想像が出来ないだけで、起こる。
それをここで目の当たりにしてしまった。

この旅で出会った、タクシーの運転手さん、請戸小学校震災遺構の係の方、後に双葉で話した方
悲しい時間を通過する中、福島の人達は皆とても優しく接してくれた。

ここを出たら、原発に近づける所まで近づこう。

何とも言えない気持ちを、東京で買ってきたコンビニのパンと共に飲み込み、請戸小学校を後にした。


次回は
原発に近づき、双葉で見たものについて書いていきます。


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