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法律の話 ~なぜ法律が存在するか~

こんにちは。takuです。

今回は法律についてざっくりお話します。

私は大学で法学を専攻しており、法学やそれについての問題に触れることで色々考えることがあります。それについてお話しつつ「なぜ法律があるのか」という切り口で抽象的にはなりますが語っていこうと思います。

法律の自由主義・個人主義的側面

そもそも法律の位置付けとしては自由主義を裏付けるものであると考えられます。

ここでいう自由主義・個人主義は、個人の意思が尊重され各々が自由な経済活動をそれぞれの責任において行うということです。要するに人は何をしてもお咎めはありません

このように書くと犯罪を是とするものになってしまうのですが、ここで言いたいのはそういうことではありません。そうではなく、真っ白な状態から国家としての活動を始めるためにはまず国民の自由な活動を認めることが必要になってくるということです。

大昔は身分や所得水準によってできることが限られてきました。平民と貴族同士で結婚できませんでしたしお金を払わないと選挙権もありませんでした。士農工商、カースト制というものを聞いた方も多いのではないでしょうか。

そうした制限をまず取っ払わなければ最低限の権利を確保できず国家として成り立ちません。その意味で言えば日本が江戸末期に欧米諸国と不平等な条約を結んでしまったことも、日本では最低限の権利が確保されていなかったことが理由として考えられます。不平等なのも納得がいくでしょう。

日本国憲法でも三大原則の一つとして基本的人権の尊重があります。自分の利益を得るためになされる活動は自由に行っていいのです。好きな人と結婚し、好きな人に投票し、好きな宗教を信じる。これらが全く問題になることがないのはこういうことです。もっと言えば人に対する殺意を覚えたとしても問題はありません。もちろんそれを表に出して実行するのはダメですが。

※凶器準備罪などの法律もありますが、殺意までならギリギリグレーゾーンです。いずれにせよ利益を生まないのでやめておきましょう。

法律の平等主義的側面

以上のように国民の活動が自由になると、今度は国民同士で対立するような状況が考えられます。あるいはこの場面で犯罪の問題が起きるかもしれません。ここで第二の側面、平等主義が浮かび上がります。

文字通り平等主義は皆平等に扱われるべきだということ。これによって客観的事実・立場からその問題を適切に解決することができます。

極端な例を挙げると誰かが横入りをしたという場合。もちろん横入りについては取るに足らない話なので各々の自由な裁量に委ねられ、横入りに関する法律・裁判例は存在しませんし(あったら教えてください、興味あるので)。ただもし横入りの問題で裁判になるのであれば、当然ながら先に並んでいた人が優先されます。それは、先に並んでいる人が先になるのが合理的であり、後から横入りをして先になるのは不平等だからですよね。

つまり、同じ国民である以上対等な立場であることを前提としたうえで考慮すべき事実を考慮してどちらが悪いかなどの判断がなされるわけです。

このような平等主義的側面から犯罪について考えてみると、一見死刑は正しいように思えるかもしれません。人を殺したのだから同じように死んでもらわなければ被害者と対等ではない、という論理です。

しかしそれだけの理由で死刑を是とするのは早計です。

そもそも刑法の存在する意味は報復、つまり「やりかえす」ことだけではありません。自分の犯してしまった罪と向き合い「更生する」という意味もあります。なにも死ぬことだけでしか罪を償うことができないわけではありません。生きて自分の行ったことを反省し世の中にとって良い行いをすることでその罪を償うという考え方もあります。考え方については哲学的ですし人それぞれあると思いますが、少なくとも近代国家における刑法の考え方は更生という側面が強いです。

※2020/4/20 補足
報復をベースとするという考え方が主流であるようです。ただ死刑制度に対する世界的な動向を見てもあながち報復に尽きるというわけではないと考えております。ここは微妙な話になってくるので報復と更生の両方があるとだけ考えていただければと思います。

この更生の背景の一つとして平等主義というものが挙げられるかと思います。というのも人の命を軽視したと考えられ得る、殺人を犯した加害者の命を同じように軽視し、その人の命を奪うというのは、確かに報復の意味では平等に感じられるかもしれませんが、より全体を見た時に命そのものを軽視することになるからです。すなわち人を殺したという理由であったとしても人を殺すことは絶対に許されないのです。それを是としてしまえば遺族による報復殺人を良しとすることになり憎しみが憎しみを生むという負の連鎖を引き起こします。報復という観点だけで刑法を決めてしまえば結果として国家全体にとってマイナスになってしまいます。

あるいは冤罪ということも考えられるでしょう。確固たる事実・証拠がないのに死刑を宣告して実際に執行するのは、それこそ平等ではありません。人の時間、名誉、生命という非常に大切なものを奪うのですからそれ相応の根拠がないかぎり刑罰を科すことは許されることではありません。

死刑制度の是非に関してはこのように非常に難しい問題です。これに対して私も是非を主張することはできません。
※実際に死刑を出した裁判を見ると、あまりにも残虐すぎるものもありこれは流石にアウトでしょ…というのもあるにはあります。

法律の資本主義的側面

資本主義の意味については、社会主義との比較という観点から見ると分かりやすくなると思います。

この対立する二つのイデオロギーはどのような対立軸を持つのかを簡潔に言えば、個人で利益を得るか集団で利益を得るか、ということです。法律が資本主義的であると申し上げたのは、自由主義の所で述べた通り、個人が利益を得ることを重視しているということです。

個人が利益を最大にするために様々な行動をする一方で所々で他者との問題が発生するわけですが、基本的には国や法律が個人間の対立を解決する必要はありません。理由は簡単で、基本的にはその対立はすぐに勝敗が決するからです。メカニズムとしては経済学と変わりありません。

むしろ、法律はあまり私人(私人間)に介入しない方が結果的には国家全体のプラスになりやすいのです。交通違反が行政処罰に収まることを考えればお分かりいただけるかと思います。これがもし刑事裁判で処罰されるならば、違反した人は皆前科が付くことになりその人の名声を下げることになりますし、もしかしたら運転するのをためらう人も出てくるかもしれません。それは自由主義に反することにもなりますし国全体で見てプラスにはなりません。

別の例を挙げると、民事と刑事のどちらが優先されるかと言えば民事になります。例え違法な行為であっても直ちに処罰されることはありません。それは各個人の意思を尊重し、それに任せて法が機能しているからです。

特に刑事については被害届や逮捕状、裁判所への起訴状というプロセスを経る必要があり、またそのプロセスの中で起訴にせずに穏便に済ませる手段があるというのは法律があまり介入しすぎないようにすることの現れでもあると言えるでしょう。

終わりに

以上のことをざっくりまとめると、

基本的には何をやってもお咎めはないが(自由主義)、一人一人が平等な立場である以上やってはいけないこともあるし、あるいは平等な立場を前提とした正しいジャッジを裁判では下さなければならない(平等主義)。また、自由を確保するため・世の中を上手く機能させるために法や国家はあえて国民に介入をせず、裁量に委ねている(資本主義)。

ということになります。

最後にお伝えしたいのは、法律は道徳ではないということです。法律はあくまで国全体の利益になるように機能すべきで、ただ感情まかせに機能してはいけないのです。

これから法律を学ぶ方は違和感を覚えることがこれから度々あることでしょう。そんな時はこのような「法律の存在する意味」を踏まえて考えていただければと思います。


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