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本能的に支配したがる生き物・ヒト

「ドメスティケーション」という言葉がある。

人類は今から約一万二千年前に、肉を追いかける生活をやめて、定住し自分が周囲を支配したいと思い始めた。これにより、それまでの狩猟採集といういわばその日暮らしに近いような生活から、作物を育て、家畜を育て食糧を確保する農耕牧畜の生活にシフトチェンジしたというのである。
このように、周囲にあるものを支配したいと考えるようになった人間の脳の進化、それが「ドメスティケーション」と呼ばれている。

ドメスティケーションの本能は、最初は植物や動物の支配といった、主に食糧を目的にしたものだけだったが、農耕牧畜社会に移っていく中で、畑を耕すための道具や動物を仕留めるための道具を作っていかなければならず、その過程で金属も支配したいと思うようになった。すなわち、今でいう「治金(ちきん)」である。

食糧が行き渡り、精巧な金属も作られるようになると、毎日の食糧に困らなくなる人が少しずつ現れ、その中から「自然界のルールとはどうなっているんだろう?」と考えるものが出始める。そのような人が自然のルールを解明し、「これは生活に役立てれるのではないか?」と応用する人も出始めた。この最たる例が、「神」の存在を作り出した宗教、次に科学である。

つまり、食糧、金属ときて、ついに「自然の摂理」まで支配し始めたのが、ドメスティケーションを覚えた人類なのである。

さて、ここで個人的に気になることが一つ。

人類によるこの、「ドメスティケーション(自分の周囲を支配したい欲求)」が約一万二千年から人類に芽生え始めてたのだとして、どうしていまだに多くの人は、就職によって誰かの経営する組織の下に就いたり、あるいは働かず世捨て人のような生活を送る人がいるだろうか?

政治家や経営者に関しては言うまでもないが、支配したい欲求が本能としてあるのなら、食糧も金属も自然の摂理も、他人からの指示ではなく自分の手で支配したくなるのでは?、と単純ながら思ってしまった。

これは私なりの考察だが、まず就職する人に関して言えば、それによって給与を貰うことで金銭的な余裕ができ、食料や金属などを自らの意思によって生産できる社会の中に居続けたいから、なのかもしれない。

要するに、働いて金を貰い、社会に溶け込めば、食糧も金属も自然の摂理も十分に支配できるから、自分からわざわざ指示して支配しようとは思わないということだ。

では、働かない世捨て人のような人はどうかというと、彼らも完全なサバイバル生活をしているわけではなく、必要最低限の社会保障などは受けながら、同じく食料や金属を支配する社会の中に居続けることが大半である。
わざわざ人を動かそうとしなくても、生活に困らないだけの食糧や金属は手に入る。そう考えてるのかもしれない。

またこのタイプの人も、一日中本当に何もしてないわけではなく、たとえば畑を耕して自分だけの作物を作ってみたり、天気や化学反応・物理現象などについて書物やネットなどで調べて知り、日常に活かしてみたりといった「自然界の摂理」を支配しようとする人もいるだろう。

つまりほとんどの人間は、生まれ育った環境に違いがあっても、定住して自分の周り(外界)を支配したいと言う欲求を本能として持っている。それは食料かもしれないし、金属かもしれないし、自然界の摂理かもしれないし、自分以外の他の人間かもしれない。あるいはそれら全てかもしれない。

iPhoneのある生活を一度知ってしまったらもう前の生活には戻ろうと思わない心理もこれと近いものを感じる。つまるところ、情報を支配できるようになったのなら、これからも引き続き支配したい本能が働くのだろう。
私もスマホのない生活に今更戻りたいとは思わない。

というわけで、「支配したがる人間って面白い」という話はこれで以上なのだが、ここからは余談。聞きたい人だけ聞いてほしい。

「ドメスティケーション」の説を改めて解釈した時、なんとなくパッと思い浮かんだ人間関係があった。俗にいう「ドS」「ドM」の関係である。

最初に断っておくと、私は正直、どっちの気質があるとかないとか別に決める必要はないし、人にそれを強いる必要もない。お茶の間の話題の一つとしてそこそこ盛り上がる程度で十分だと思っている。

一方、「ドSかドMか二つに一つ」のような二元論だけではなく、自分のキャラクター性というのをある程度分析しておけば、自分のライフスタイルを方向付ける上で役に立つとは考えている。
例えば「自分は浪費の気質があるから、何か継続したいことがある時は、達成のハードルを極端に下げて続けやすいようにしよう」など、自分のキャラクターがどんなものかを把握しておくことで、目標の達成に役立つ可能性は高い。

そこで思ったのは、「いわゆるドSと言われる人とドMと言われる人の支配欲求、特にドMの人にも支配欲求はあるものなのか?」という疑問である。

私の勝手な考察だが、ドSの人間に支配したい気があるのは理解しやすいとして、ドMの人間にも支配したい欲はあると考える。
「誰かの言いなりになりたい」と言う気のある人は、言いなりにさせてくれる人間を欲している。自分が誰かに支配される構図を思い描き、それを体現することに喜びを感じているのだとしたら、支配してくれる人間と関係を維持できるよう「言いなりになる自分」を続けることで、支配しようとする人間そのものを間接的に支配しようとする。
そう考えると一周まわってドMが一番ドSとも言えるかもしれない。

そんなくだらないことまで考えてしまった今日この頃である。

今回は以上。
全ての知に「幸」あれ。


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