論理と言葉の難しさ
こんばんは。たくたくです。今日は少し気になったことがあるのでそれについての考えを纏めてみます。
突然ですが以下のようなジョークをご存じでしょうか。
天文学者と物理学者と数学者がスコットランドで休暇を過ごしていた。列車の窓から眺めていると、平原の真ん中に黒い羊がいるのが見えた。
天文学者:なんてこった!スコットランドの羊はみんな真っ黒なんだね。
物理学者:違う違う。せいぜい何匹かが黒いだけさ。
数学者:(天を仰ぎながらやれやれという調子で、抑揚を付けて)スコットランドには、少なくとも1つの平原が存在し、そこに1匹の羊が居て、さらにこっち側の片面が黒いということが分かるだけさ。
こちらのジョークは数学者の厳密さをネタにしたものですがこのジョークはある種言葉の使い方の難しさをとらえている気がします。
というのもある集合に対して「AならばBである」という命題について非常にあいまいなまま話を進める人が多い気がするからです。
数学的には上のように「AならばBである」が成立するには集合の中のすべてに対して成立していなくてはいけません。逆に一件でもこれが成立しないようなものが含まれるならそれは不成立の例となります。実際例を考えるなら男という集合に対し「既婚者なら子持ちである」という命題を考えましょう。当然これは不成立です。子供がいない夫婦だっていますからね。
ここまでの流れを踏まえて考えてほしいのは元の「AならばBである」という命題について、「集合には少なくとも一つの、AならばBを満たすものが存在する」というものに変えて考えてみましょう。こうすると一気に条件が緩くなりますよね。上と同様の例にするなら「男の中には、既婚者なら子持ちである人間が少なくとも一人はいる」という感じです。
何故こんな当たり前のことを書いているかというとこの上の二つの命題を話しているうちに混ぜる人がいるんです。身の回りや聞いた話の数件の実例からあたかも日本全体にそれが成立しているように話したり、あるいは常識でしょといってそれがどんな人間にも当てはまるように話す人がいます。
ただ、ここで言いたいのはそういう話をするなら100%確実に全員に当てはまるようなことしか言うなというわけではないです。というかそれは不可能です。国レベルで個人が何に当てはまって、あるいはそうでないかを確認するのは膨大な時間とデータが必要です。そのために統計などはあり、ある程度の確かさでその推定ができます。そういったデータ的な背景を理解して大きな対象への話をするならわかります。しかし大半はそうではないのです。
僕が気に入らないのは相手とこちらでその命題のずれが生じており、自分は個人レベルでしか成立しない話だと思っているのに相手はほとんどの人間に当てはまる常識だと思っている状態です。僕としてはそういうのにも当てはまる人はいるだろうな程度の認識ですが、向こうはそれが当然だと思って話してくるんです。これは強烈にストレス溜まります。いわば常識の押し付けに等しいですからね、しかもその常識の根拠なんて何もないんですから。
正直に言えば僕があまりに神経質であるともいえるとは思います。しかし、確実性のないことについてはそうであると断言してはいけないと考えているのです。これが立場があってリーダーとして決断をするなら話が変わりますが、そうでないならデータを示してしっかりと理論や実証を示すべきだと考えます。そうでなくてはただの水掛け論以下の話にしかなりません。
だからこそ自分が話す命題についてはそれがどういうものなのかをはっきりさせておくべきだと思います。どんなにあいまいでも集合全体に成立するのか、集合の中で少なくとも一人には成立するのか程度は認識しておきたいです。そうでなくては一方的な批判にしかなりかねないこともあります。
一応書いておきますが、今回の話題の命題は「僕のあった人という集合の中には、少なくとも一人話をする際に命題をごちゃまぜに話す人がいる」となりますね。決して日本全体でもないしあったことある人全員でもありません。その中の一部の人間だけです。
さていかがだったでしょうか。自分では結構ストレスの溜まった事態だったので記事にしてみました。案外原因を考えてみるとスッキリしますね。そして自分はそうならないようにしようと思えます。もしここまで読んでいただけたらありがたいです。
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