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ジッター課題図書「神様のボート」

学校の先生なんて因果な商売していると、本を読んでも「学び」や「教育」や「子供の人権」や「発達障害」や、そういう偏った視点で読み取ってしまうようになって、少し残念です。「神様のボート」(江國香織)を読んで、「この娘さんに、もし発達の偏りがあったら悲劇が起きていたのでは」と思い、「児童相談所も手を出しづらい案件だ」と思案し、「いつまでたっても母親にならず、女のままという保護者は学年に一人は必ずいる、そしてそこんちの息子は母の恋人になろうとするし娘は家出する法則」をかみしめるのです。(これは日本だけかもしれません。)

何も知らない高校生の頃だったら、なんて素敵な小説かしらとうっとりできていたのに!生々しい父親は不在で、ピアノと水商売で生計を立て、余計な人間関係に煩わされず、娘は聡明で、好きな所へ引越しして、なんの責任も負わず、好きな人のことだけ考える、夢の中のような日々。現実を直視することが怖いくせに、どこかに本物があると信じていた夢見がちな高校生の頃なら、お気に入りの本になっていたでしょう。

今ならば、このお母さん、社会性の発達が未熟で子供のころから周囲から浮いて、唯一自分を受け入れてくれた人に強烈な執着を抱き、共感性は乏しく、周囲の人は大変な思いをなさるだろうと思ってしまう。この人が定型発達であれば狂おしい恋に身をささげた「イカレた」人かもしれませんが、なんか小学校の頃から衝動性が強くて友達にけがさせてるんですよね。じゃあもう生きづらさを抱えた人として、共感性の乏しさも見通しの甘さも子供の成長に責任を負わないのも、「まあ、そうだよね」と納得です。しかも、脳の特性なのでずっと変わらない。しかし、「大変だから、その性格直しましょう」ではなく「大変だけど、そんな性格で生きていくんだよね」と優しく言ってくれるのが文学の良いところですね。

そして娘さんは健やかに発達し自分で考えることを学び、彼女が母親から自立を宣言するときは「えらい!!!!!!」と爽快な気持ちになりました。(三者面談でも親に自分の考えを伝えられないお子さんが多くて、心配です。)つらいし、将来何かに躓いたときに自分の育ちに原因を求めてしまうこともあるけれど、きっと正しく生きていけるような気がします。親離れする子ども本当に尊い。

この小説は作中にメディアのにおいが少なく、読書して絵をかいてラジオは外国のニュースでピアノを弾いて、そんな生活は憧れだろうなと思います。潔癖な女子高生なんかこういうの大好きでしょうね。夜が静かそうでいいですよね。テレビやネットに繋がらないというのはいいですね。

兼近さんがこの本に共感したとおっしゃっていましたが、周囲になじめない中学生時代の母にも、水商売してる恋する母にも、別れた男をいつまでも愛している母にも、そんな母を一人の人間として見つめる娘にも、まあ、いろいろ感じていたんでしょうね。なんか、「もしかして自分の家庭は不完全なのだろうか」という不安や迷いが、江國香織の繊細で美しい描写によって、児童福祉的にどうなのかという問題もフランス人的個人主義の生活に昇華されている。不完全でもいいですよ、あなたの生活は見方によってはこんなにすてきですよ、と言ってくれる文学は恐ろしい。学校の先生にはそんなこと絶対に言えないから。


よく、この小説を「狂気の物語」と言いがちですが、それを言ったら発達に偏りのある人の恋や生活は「定型発達」側から見ると「くるっていておかしい」と判定されてしまいます。これからはそういう面にも配慮しなければいけないのでしょうか。なんか、息苦しいですね。本人がいいといってんだから、それでいいとしましょうよ。


ただ、そこんちの子どもがつらい思いをして助けを求めているのなら、それを助けるために四苦八苦する学校の先生でありたい。外野にいくら役立たずと言われても、理想ばっかりと言われても、そういう仕事なんで。

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