子ども新聞

人の育ちに欠かせない?楽しさと真剣さのバランス(No.5)

1.楽しさと校風
 1)楽しさが広がる雰囲気
 2)楽しさと人の育ちの関係
2.真剣さと校風
 1)真剣さが漂う雰囲気
 2)真剣さと人の育ちの関係
3.それらのバランス

「成人のための学校」で大切にされていることは、何なのでしょうか。
言い換えると、どんな「校風」と言えるのでしょうか。

この学校での教育的な体験は、日本で育ち・暮らしてきた中で味わったことがないことは確かです。

《拙ブログNo4》で少し触れましたが、
[https://note.com/taktaktak_rooooo/n/ne11b8bc4f7e5?fbclid=IwAR0ct1hiZXa11dvEHnMdgnSHvqvFf6b91aT42_DC4V5ljgRZje60dlDJ1Hk]
留学後1ヶ月半が経った今、楽しさと真剣さという二つの言葉を使ってまとめてみたいと思います。


1.楽しさと校風

私にとって一番、良い意味での文化的なショックを受けた校風でもあります。
また「フォルケホイスコーレ」という学校生活を象徴する言葉であるように感じています。

楽しさと教育の取り合わせは、私自身も兼ねてから想いを馳せていました。
だけど、こんなにもストレートにそれを実現している学校があるとは。

楽しさと人の育ちや、社会の発展との間には、どんな関係があるのでしょうか。

1)楽しさが広がる雰囲気

共同生活と学びを共にする生徒は120名ですが、フェローシップグループという小グループが8つほど存在します。

デモクラシーミーティングという仕組みがあり、そこで共同生活を営む上で生じる問題を全校生徒で定期的に話し合うのですが、
「民主的な運営をより円滑に」するために、フェローシップグループの単位が機能します。
全員でのミーティングの前後に20人程度のより小さい単位でのミーティングを行うことで、より問題点がブラッシュアップされたりします。
(2.真剣さ のパートでもう少し詳しく触れます。)

そして、このフェローシップグループ対抗で、先日、球技大会が行われました。

画像1

これは、サッカーをしているところです。

何とも、楽しい。どの生徒も歓喜を上げ、顔を輝かせていました。

そして、一応の元サッカー少年として私自身も心底プレイに興じました。

全員がこんなにも「興じ」られるのは、本気であることと同時に、楽しさを求めてプレイしているからだと感じます。
なので、特に失敗や上手い・へたをまったく気にする必要はありません。

「ああこんな風なスポーツの楽しみ方があったな」と、思い出されました。

楽しさが広がる雰囲気の中で、僕自身も、いつの間にか興じているのでした。

2)楽しさと人の育ちの関係

こんな風に「楽しさが広がる雰囲気」を、この学校では至るところで感じられます。

さて。なぜここまで「楽しさ」の感覚を味わえるのか、あるいは求めるのか、時に考えさせられることがあります。


楽しさと人の育ちや社会の発展には、どんな関係性があるのでしょうか。

例えば、自分自身のことを思い出すと、小学生だった頃、毎日が「楽しさ」で出来ていた。大人になりたくない、とすら思っていたほどです。

また、自分にとっては、この「楽しさの感覚」は「人との関わり」に深く結び付いていました。周りに人がいてこそ、楽しかった。そこから、自分にとってはとても大切な、非常に多くのことを学んだと今でも思っています。

そして、今いる「成人のための学校」。そこに広がる「楽しさの感覚」。

私自身が子供時代に心底求めていた「楽しさの感覚」と、根っこの部分では、同んなじものだなぁ、と思っています。

人との関わり合いが、本来「楽しい」ものである、ということ。そこから学ぶところが大きいということは、「大人」も「子供」も変わりがない、ということかもしれません。


2.真剣さと校風

さて。学ぶことと「楽しさ」の関係について、少し想像を膨らませてみました。
楽しさが、僕のいる成人のための学校の「基底にある」と思っています。

だけど、「楽しさ」のみでは完結していません。
「真剣さ」。これが、楽しさと調和するように、良いバランスで、成人のための学校の学びと生活を支えているように思います。


1)真剣さが漂う感覚

画像2

これは、全校生徒で学校生活の改善点等について話し合いをする「デモクラシーミーティング」の一幕です。定期的に行っています。

先述のフェローシップグループの話し合いで、挙がった問題点をボトムアップ式にこの場で取り上げたり、いきなりこの全員参加の場で意見を述べ合ったりします。

ちなみに、担当のTeacherも一人その場にいましたが、話し合いが滞った時などあくまで調整役に徹していました。

この時は、バスルームやトイレをセクシュアリティに関わらずに解放する案について、話し合われました。ジェンダーの多様性等への配慮や、「性」へのオープンでセーフティな態度について、考える場ともなりました。

そして、こういう場で、「真剣さ」の雰囲気が漂います。


2)真剣さと人の育ちの関係


以上は一例ですが、こうした真剣さが漂う雰囲気は、随所で感じられます。

授業でも、社会問題や世界で生じている問題を話し合う時は、やはり真剣です。

共通しているな、と感じるのは、"For others"、つまり自分ではない他の誰かについて考え、改善策を探している時には、自然と真剣さが生まれて来る、ということです。
それが自分の属する学校というコミュニティの問題であろうと、広く隣国や世界で起きている問題であろうと、変わりありません。少なかろうと多かろうと、です。


そして、真剣さが漂ったり、自分自身の中で生まれてきたりしている時は、「もっと学びたい」と感じ始めている自分がいるようにも思います。

「真剣さ」が立ち込める時、何かを「学ぶこと」に向き直させられる。

そして次の学びへと向かい、あたかもその中を確かめながら航海してみようとする時、視野が開けてきたり、視点が少しずつ変わってきたりする。そんな感じがします。

そんな意味でも、「真剣さ」と「育ち」は、繋がり合っているなあ、と感じる経験をしています。


3.それらのバランス

ここまで、「楽しさ」と「真剣さ」を校風と掛け合わせながら考えてみました。

そして、この2つは、水と油の関係では決してなく、相性の良いものだ、と成人のための学校での経験を通じて感じています。

また、一番大事だなあと感じていることは、そのバランスです。別の言葉で言うと、その”混じり合い”でしょうか。
楽しさと真剣さは、バランスや色合いを変えながら、その時その場、その自分・相手の中に表われて来る。

そして、人の育ちにも、コミュニティや社会のより良い結び付きにとっても、この2つが1つにして良い影響をもたらすのではないかなぁ、と思う次第です。


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