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シヴァ神の昼下がり

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この小品は作者が学生時代に創作したものです。後年、友人のイワカミヨーコが挿し絵をつけたものが、自家製本の形で残っていました。生硬ではありますが、作者にとっては、とても愛着の深い一篇です。

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カーラの木は氷の噴水だ。地面から天を目指して吹き上げ、そのまま凍りついた噴水だ。手を伸ばせば触(さわ)れそうな所を、ゆっくりと流れてゆく雲にさえ、届くことなく凍りついた噴水だ。
透明な果実をつける頃になると、孔雀の扇のようにも見える。一本の太い幹の頂から、数えきれないほど這い出した、長い長い紫の葉の先端に、小さな露の一雫が萌えたかと思うと、カイラーサ山の冴えた空気を集めて、見る見るうちに膨らんでゆき、水晶球のような果実を結ぶのだ。鈴なりの果実は、紫の羽を彩る眼状斑だ。

折しも、カーラの実の季節だった。バクティは、肌を刺す冷気も忘れて、拳(こぶし)大に膨らんだ水晶球の一つに、うっとりと見入っていた。

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バクティは、カイラーサ山の中腹に住んでいる。色々な木から色とりどりの樹液を集めてきては、宝石よりも美しい宝物に仕立て上げ、それを麓の人々に売って、暮らしを立てていた。カーラの樹液を採りに、山頂まで足を運ぶようになったのは、ごく最近のことである。その頃はまだカーラの葉末に、芥子粒ほどの露も見られなかった。
カーラの幹にV字型の深い創(きず)をつけ、その下に受け皿の容器を括りつけておくと、鮮紅色の樹液が溜まる。山腹の家にたどり着くまでの間に、採取した樹液はこちこちに固まって、ダイヤモンドよりも硬くなってしまうので、これを細工するためには、同じ“カーラ紅玉”を使わなければならない。
細工の難しさもさることながら、山頂までの険しさときたらひと通りではなかった。だがバクティは、カーラ紅玉の美妙さとカーラの木の霊妙さのためなら、命を引き換えにしてもよいと思っていた。葉末に萌えたカーラの実を目にしてからは、そんな思いがますます募った。

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「バクティよ、何が面白くてそんなに見つめるのか」
突如天空に、低い低い抑揚のない声が轟き渡った。バクティは我に返って、天を仰ぎ見た。鉛色の空には、緑青(ろくしょう)のような雲が淀んでいる。錆びた太陽は、南天にへばりついたまま、びくりともしない。
「バクティよ、そんなにカーラの実が好きなのか」と声が繰り返した。
バクティは思いきり氷の空気を吸い込んだ。すると急に勇気が湧いてきて、見えない相手に向かって大声を張り上げた。
「あなたはどなたですか。どこに隠れていらっしゃるのですか」
「そんなに大声を出さずともよい。まずは俺の質問に答えよ」
「いやです。お姿をお見せ下さらなければ、ご質問にはお答えできません」
「かわいげのないやつだ。俺はシヴァだ」
「では、お姿をお見せください」
「ここにいるではないか」
「どこです」
「ここだ」

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バクティは、きょろきょろと辺りを見回す。そして、カーラの木に目を止めるや、仰天して尻餅をついた。まん丸い果実に真っ黒な瞳がくっきりと浮き出て、一斉にこちらを睨んでいたのである。
「さあ、約束であるぞ、質問に答えよ。なぜカーラの実が好きなのか」
バクティは、恐ろしさに声も出なかった。
百千の眼球が、てんでんばらばらに、ぎょろぎょろと蠢いて、応答を迫る。バクティはもう一度、氷の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。今度は勇気が沸くどころか、抜けた腰さえ立たない。それでも気持ちは徐々に落ち着いていった。すっかり落ち着きが戻るのを待って、バクティは答えた。
「カーラの実は完璧な球体だからです。球体は永遠です。球体は無限です。球体の表面をいつまでどこまで辿っても、果てがありません」
「なるほど。では聞こう。球体の内部はどうかな」

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バクティは返事に詰まった。するとシヴァが、無数の目玉をぎょろつかせながら言った。
「内壁を辿れば確かに、永遠でもあり、無限でもある。ところがその壁は、同時に有限の壁でもある。中にいるものは永遠に外には出られない。帰するところはやはり、永遠ということになるが、さてどうだろう。さあ、これを見るがよい」
その言葉が終わるか終わらないうちに、黒い瞳は球体の中で、ゴムのように延び、生白く色褪せ、いつしか、逆立ちした竜の落し子のようになっていた。それは確かに、落し子には違いなかった。紛うがたなき胎児の姿だったのだ。
バクティは呆然として、葉末に垂れ下がった数多(あまた)の胎児を眺め渡した。透明な球体の中で、胎児たちは、かすかに蠢きながら、確実に成長していた。だが成長するのは形だけで、大きさは少しも変わらない。それでも、いずれは球体が割れて、元気な赤子たちが飛び出してくることだろう。

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そうこうするうちに、カーラの落し子たちは、もう思春期を迎えていた。うっすらと口髭の生えた男の子が、傍らの髪の長い女の子に、一生懸命近づこうとしている。が、二枚の透明な壁に遮られて、指を触れることすらできない。男の子は涙を流す。女の子も両手で顔を覆う。
やがて成年男女のカップルができた。それでも球体はまだ割れない。双子のシャボン玉のように、ぴったりとくっついた球体の中で、ふたりは相変わらず透明な壁を隔てている。近づいては離れるカップル、結ばれながら離れてゆくカップルもある。これは、男女の間に限ったことではない。男同士であれ、女同士であれ、一対の球体の間に繰り広げられる、接近と離反の悲喜劇。

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そして落し子たちは、濁った球体の中で老醜をさらけだす。球体ともども色艶を失い、皺くちゃになって、ひとつ、またひとつと地面に落ちてゆく。そのとき初めて球体は割れ、汚れた膿を地面にぶちまける。

何もかも終わり、しなだれた紫の葉だけが残った。バクティは、溢れ出る涙をどうすることもできなかった。
「バクティよ、なぜ泣くのか」
遥か頭上に、低い低い声が響き渡った。バクティは涙声で答える。
「あんまり残酷すぎます」
「残酷だって?子どもたちは消滅した訳ではないのだぞ。カーラの木は限りなく慈悲深い。土に落ちた子どもたちのひとりなりとも見捨てまいと、普く広く救いの根を差し伸べている。救い上げられた子どもたちは、幹の血管を這い登って葉末に辿り着く。そして新たに生まれ出るのだ」
「それが永遠に繰り返されるのですか」

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「そうだ、永遠に」
バクティは、ますます悲しくなってしまった。
「バクティよ、なぜ泣くのか」
「あんまり残酷すぎます」
「永遠に滅びることがないのに、なぜ残酷なのか」
「だからこそ残酷なのです」
「お前は永遠が好きな筈ではないか」
バクティは、涙で喉を詰まらせた。ただひとこと、
「残酷すぎます」と呟くのが精一杯だった。
「カーラの血を抜き取るお前の方が、遥かに残酷ではないか」
「その言葉は氷の刃(やいば)のように、冷たく鋭くバクティの胸に突き刺さった。バクティはもう、どうしたらよいか判らなくなって、地面に突っ伏すなり、声を限りに泣きじゃくりだした。

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泣き疲れて顔を上げた時には、黄昏が西の空を血の色に染めていた。凍りついた涙のために、顔中がぴりぴりと痛んだ。バクティは立ち上がって、カーラの木を仰ぎ見た。折からの入り日を受けて、鈴なりの果実が、目の覚めるような緋色に輝いていた。

一陣の寒風が走り抜け、日に染まった水晶球をゆらゆらと揺さぶった。が、果実は、しっかりと葉末にしがみついたなり落ちなかった。バクティは百千の球の中から、カラカラカラカラと乾いた冷たい音が聞こえてくるような気がした。
雲の消えた空は鈍色(にびいろ)に凍てつき、四囲の峰々に紫や黝(あおぐろ)の氷片を撒き散らしていた。西の方にだけ、うっすらと緋色の血が滲んでいる。バクティは呟いた。
「あの夕映えの向こうには、昼があり、朝がある」
それから東の空に目を転じて、また呟いた。
「そして向こうには、夜があり、朝がある」

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