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丙午(ひのえうま)

桜庭一樹の『赤朽葉家の伝説』を読んでいたら、
ヒロインの一人が丙午だった。

丙午の猫は多分、今は存在しないだろうが、
あと6年生き長らえば、出逢える可能性がある
…などと、目の前の猫を睨みつつ、
どうでもいいことに思いを馳せてみる。

そういえば丙午の編集者から、
遅ればせの年賀状が届いていたのを思い出した。
仕事の依頼を受けて初めて会った時、
パラジャーノフの話で盛り上がったものだった。

「パラジャーノフを語り合える人に、
初めて会えて嬉しい」

と頻りに感激していたっけ。

直後に出版社を辞めて、
僕とは少し違う畑のフリーの編集者になったので、
その後は会う機会もなくなっていたのだ。

急に懐かしくなって、昨日届いた年賀状に、
改めて目を通した。
昨日はいい加減にしか見ていなかったのだが、
きちんと読むと、ちょっと気になる一文があった。

『久しぶりにお会いしたいので近々連絡します。
仕事じゃないけどね。』

数日後、その火野絵磨(仮)さんから、
予告通りメールが来た。

『明日あたり軽井沢でお会いできませんか?
もし大丈夫なら、お時間指定してください。』

そうか、彼女と最後に会ったのは前世紀だったのか。
というのも、喫茶店軽井沢は、
1999年の12月に閉店していたからだ。

その旨を告げて、軽井沢のあった側とは駅の反対側にある、
喫茶店ランタンで会うことにした。

二十数年ぶりだが、彼女はほとんど変わっていなかった。

「パラジャーノフの同好会みたいなのを立ち上げたんです。
もしよかったら覗いてみません?」

数日後の夜、メモ用紙に走り書きされた簡単な地図を携えて、
地下鉄の水天宮駅に降り立った。

ずいぶん歩いたところに目的のカフェはあった。
地下2階。
階段を下りる際に通り過ぎる地下1階は、
鉄扉に閉ざされている。
なんの表示もないので、なんなのかはわからない。

なんの衒いもない、シンプルでオーソドックスなカフェだった。
ただ地下なので当然、オープンテラスはない。

赤ずくめの従業員を除けば、女性ばかりだ。
十代と思える少女から七八十代の老女まで、年齢層もまちまち。

「パラジャーノフのファンって、女性ばかりなんですか?
それともこの会自体が女性限定だとか…」

「本当言うとね、パラジャーノフとはなんの関係もないの。
正式名称は『丙午の会』。
フリーメーソンみたいなもの。
一種の秘密組織なの」

「えっ?
でも丙午の人だけが入れる会、なんてことはありませんよね?
だったら、みんな、1966年生まれでなければ、
おかしいことになってしまう…
どう見たって、1906年生まれはいそうもないから」

絵磨さんは、にこりと屈託のない笑顔で応えた。
にたり、ではなく、にこりだ。

「そうとも限らないの…」

そう言うと、何かを不意に思い出したように、
急ぎ足でどこかへ消えてしまった。

「火野さんのお知り合いですか?」

背後で声がした。

振り返ると、仲間由紀恵をボブにしたような、
小柄な女性が立っていた。

「僕のことですか?」

「ええ」

「古い仲です…
そんなに親しいわけではないのですが…」

女性はおかしくて仕様がないという風に、
声を上げて、けたけたと笑った。
けらけら、ではなく、けたけただ。
どう見ても、30代以上には見えない。

「女性に歳を尋ねるのはどうかと思いますので、
歳ではなく生年月日を伺いたいんですが、
よろしいでしょうか?」

「ええ、かまいませんよ。
2986年の3月3日です」

「えっ?
今年は2020年ですよね?」

「ええ、もちろん」

「もしかして、1986年生まれの間違いでは?」

「いえ、2986年です」

そういえば、1986年は丙午ではなかったな、
と僕はぼんやり思った。

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