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6月20日:もっと気の利いた「世間話」はできないのか

「趣味はなんですか?」と聞かれて、困ってしまうことがよくある。趣味という言葉の意味がよくわからない。
辞書で調べてみるとだいたい、「自由時間に好んで習慣的に行うもの」と書かれている。
そのままの意味で考えると睡眠と食事と仕事と読書と日記になる。毎日それをやるだけで24時間のうちの大半は使い切ってしまう。ただこれだと多分文脈の読めない人になってしまうので、社会的な意味での趣味というフィルターを通さないといけない。そうすると読書と日記になるのだけど、読書は特に多様性の多い分野なので意外と話が広がらないことが多い。小説なのか、実用書なのか、哲学なのか、哲学なんてなったら余計に話が広がらない。日記は日記で、書いている内容をまさか言えるはずもなく、大抵は「毎日日記を書いているなんてすごいね(あるいは、気持ち悪い)」という話にしかならない。

毎回聞かれるたびに、答えに困るし、聞いた方も思ったより広がらなくて「あっ・・・」という感じになってしまう。
好きなことを答えるはずなのに、なんでこんなにネガティブな気持ちにお互いならないといけないのだろうか。社会的な動物ならもう少し、社会をやるために適した会話を創作できないものなのだろうか。
だいたい、人の趣味を聞くというのも80%くらいは、「共通項目を探索する」ということで、もう20%は「自分では思いつきもしなかった一面を知る」ということだろう。

前者は、そもそも文化的に成熟している国(時期)なのだから、共通項目を見つけ出すのは相当に困難だと思う。後者は、問いかけた側がうまく拾わないと、答えた側が不快になってしまう。僕の経験上、日記や読書以外に色々考えて、どんな角度から答えたとしても大抵は拾ってくれることはない。
そういうことがわかっているから、基本的に自分から「趣味はなんですか?」のようなことは問いかけたりはあまりしない。それはそれで「人に興味がない」のような感じで見られてしまうので救いようがない。いいじゃないか、偶然の出会いで知るという選択肢があっても。
たまたま食事の好みが一致する、好きな作者が一致する、アウトドアが好きなことを知る、それくらいでもいいと思うのに。

社会のフィルターをかけると、つまらなくはならないだろうか。というか、それが「うっせぇわ」的な歌が流行する一つの要因ではなかったのだろうか。なぜわざわざそういうコミュニケーションをみんなで拡大再生産していくのかよくわからない。
そんなことをしなくても、全く知らない他人を「仲間」として認識することはできないのだろうか。性悪説なら問いかけたところで疑いは晴れないし、性善説ならそもそもこんな質問は出てこない。極論だが、中途半端な感じがする。

誰かを楽にして、自分も楽になれる文章。いつか誰かが呼んでくれるその日のために、書き続けています。 サポートするのは簡単なことではありませんが、共感していただけましたら幸いです。