4-2 東京教育大学の悲劇

前回は

移転候補に

 政府の筑波研究学園都市構想の核となる大学として、移転場所を探していた東京教育大学は手を挙げる事になります。ただ、研究学園都市のその他の研究所等は多くは理工系で、文理混合の東京教育大学が果たして最適だったのかは、現在都内に3校も理系国立大学がある事から考えるに、その大学のどれかが移転しても良かったのではないかと、冷静に考えると疑問はあります。

 この時の問題点は、学内の合意を完全に得ないままに移転候補に名乗り出た事です。いわゆる学長の暴走というやつです。

 最近旭川医科大で、コロナ治療者受入れを進言した病院長をクビにした学長が問題になったなどの、いまや全国で問題になっている学長暴走トレンドの最先端がこの東京教育大学で起こっていたのです。

 この背景には、当時の学長が理学部出身で、筑波に移転する事により理工系の拡充が図れるという思惑があったからと言われています。実際、筑波大学では理工系のみならず医学系まで設置されていますから、その思惑どおりになったみたいです。

学内抗争と学生運動とのリンク

 筑波移転への暴走に異を唱えたのは、文学部を中心とした、移転によって研究環境が悪化する(当時は文京区大塚に本部があった)教員達でした。

 茨城からだと、当時は東京での会合や資料収集は1日ががりで、効率が悪くなると思ったからでしょう。つくばエクスプレスが出来た現在では、その点は改善されているでしょうけど。

 かくして学内は二分されます。理学部を中心とした推進派と文学部を中心とした反対派です。そして、折しも時代は学生運動が盛んで、学生まで巻き込んで大騒動になり、東京大学と並んで入試が中止される事態に至ります。

 東京大学安田講堂の事件の印象が強くて、忘れ去られていますが、同じ時期に東京教育大学も大変な事になっていたのです。

 結局大学構内が安田講堂の様に機動隊に占拠され、奪還しようとする学生に大量の逮捕者を出すに至り、これが長期に渡った為に、大量の留年、退学者が出現します。この中に「ベルサイユのばら」の作者の池田理代子もいた事は、今回調べ直して初めて知りました。

反対派の敗北と閉学

 凄まじい闘争が延々と続き、いつまでも強硬な姿勢を崩さず、学内を混乱させる文学部の姿勢が、逆に理学部以外の学部に、移転を容認する姿勢へ転換する教員を増加させる結果をもたらしました。

 闘争中に行われた学長選挙で、ある意味民主的な多数決の論理で僅差で推進派の学長が選ばれ、その学長の下で、東京教育大学の閉学と筑波大学の開学が決定されます。最後まで抵抗し続けた文学部の教員達は、東京教育大学の閉学をもって、各地の大学に散り、それ以外の学部の教員についても、日和った者は筑波大学への異動を認められないなど、ここで両大学の間の断絶が起こるのです。物的資産のみ完全に引き継がれていますが、実際の筑波大学はほとんど新設された大学と同じです。

現代の国立大学の雛形としての筑波大学

 こうしてほぼ新設の総合大学として成立した筑波大学は、徹底した学長への権力集中を特徴としています。まさに近年の国立大学の制度改正を先取りしています。

 他にも、教員の所属する講座を学生組織と分離して○○系として別組織としています。学生は○○学群といわれる学生だけが所属する組織があって、教員はそこに講義の為に出向く形になります。

 ぶっちゃげて言うと、学生運動に懲りた管理側にとって、情の入らないシステマティックな学生管理をする為の組織です。一般の大学のような学生と教員が学部や学科で繋がった師弟関係をぶった切ってますから。

 学生の時に、この一連の流れを推進派、反対派の両者の書籍を読んで、滅びた反対派に同情はしましたが、それ以上に推進派の目指す未来の大学像に恐ろしさを感じたのを覚えています。感覚的に、学生をモノ扱いされているような感じがしたからです。

謝意

 東京教育大学の閉学までの経緯などについて、今回改めて確認する為に、以下のサイトを参考にさせていただきました。サイト管理者の方にお礼申し上げると共に、この負の歴史を語り続ける必要性を痛感しました。






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