それなら幽霊の練習(偽日記44)

散歩をする。
なんとなくドライマンゴーをコンビニで買い、公園でたべた。
ちょうどいい歯応えがくちのなかで甘く壊れていく。ざらつかないなめらかな果肉で、ファミマのマンゴーはいつもすばらしかった。
それだけで1日が終わりうる。
とくだん生活が生活の様相を示さない時間がいまで、時間への扱いの荒さがあらわれている生活リズムは、よくないことはわかりつつ、なかなか矯正できない怠慢に甘えつつさいなまれている。
ふと小説を書くのをやめようか、とおもう。
理由もなく。
こうしたなにかを切除してしまいたくなる一瞬はときたま訪れて、べつに小説に限ったことでなくても、とりどりの対象がある。それはなんの脈絡もなく訪れて、たとえば小説をやめようかなとおもったとき、小説を書くのがつらいとか小説にむきあう気力がたりなくなったとか小説に損なわれているとか小説に乱されているとか、そういった理由みたいな、連続性のある記憶のレールをたどって訪れるのではなく、なにかの間違いではいりこんできた羽虫のように、唐突にあらわれて、すぐに窓のすきまから外へでていく。きっと誰の窓にもあいている隙間の思考だった。小説に代入できる単語は恋人でも仕事でもなんでもよく、しかしそれで私は半年まえに仕事をやめた。

きのうの夜Twitterのスペースできいた内容が毒で、おもいだしてすごく嫌な気分にもなった。リベラルもアングラもずっと間違え続けている、よりよく生きるという命題に対する不可能ごとだけがある、そして私のあらゆるものごとへの軽薄がいちばん汚い、とおもった。でも誰でも、加害的でも健やかに生きて欲しいと神様のようにおもって神様のように傲慢だった。キャンベルのきのこスープを沸かしてたべて、それも忘れる。

小説を推敲していた。推敲がいちばんつらい。思考→体感で順序よく起動すれば初稿はすぐにかけるに、推敲するときは初稿の思考をぜんぶ疑ってかかりつつ、なおすにしてもおもいだしようもない体感をもういちど蘇らせなくては書けないので、ほとんど不可能事にさえおもえてくる。肩がいたい。はやく完成させて次に行きたい。たくさん書きたい。でもその数十分後には公園で私は小説を書くのをやめようかなとおもい、そのおもいもすぐに忘れて、日記を書く段にしておもいだし、これもすぐ忘れるかもしれない、1ヶ月後ぐらいにじぶんの日記をみてまたおもいだすかもしれない、でも日記は公開されないもののほうがずっと多いから、そしたらもうだいぶおもいださない記憶になる。

書いているときは特定の選んだものしか読めなくなるけれど、例外的に読んでもいいことになっているのもいくつかあり、町屋良平の「生きるからだ」を読みなおした。同作者の小説のなかでは、たぶん比較的傑作とかではないのだけれど、それでもじつはいちばん総合して好きな小説かもしれなかった。物語が熱いわけでもなく、言語表現の凄さが他作を凌駕しているわけでもない、気がしている、のに好きなのだった。電子機器的なまたは音で声で繋がりをもって三人称が描写を分断するおもしろさにときめけるし、もちろんいい小説だけど、ほかの同作者の小説に小説として圧倒的な落差をうんでいるわけでもないのに、なぜかなんども読んで、読むたび濡れタオルのことをおもいだしてレンチンでつくって目にあてて「うはー」となって幸せなのだった。

疲れているんじゃないないのか、と電話にいわれた。
「たいしてなにもしてないんだけどな、無職だし」
それでも平日は平日で仕事でないにしても朝から夕方まで生命維持のための時間拘束があるのだし、小説だって重く書いている意識でいるから、仕事を仕事として消化できる手捌きの、からだの火照りの補正とかがない、ゆるく弱ったからだにはそれくらいでも疲れの累積はしていくのかもしれなかった。
電話は外にでたほうがいいかもよ、といった。
「でも外にでようの時間が無駄におもえていると、部屋にいる時間を結果無駄にして最悪なきぶんにはなるんだけれど、なんか肉がからだが重くてそれでもなんにもできねえんだよな」
それなら幽霊の練習をしましょう、と電話はいった。
シーツが私のあたまにかぶせられる。
わりと気にいっていたシーツだったから躊躇ったけれど、目の位置に穴をあけてから、そのまま外にでた。
「凄い視線だ」とおもった。
でもいつからかシーツおばけにも慣れて、街はちゃんとぐるぐるまわりだす。
しかしこのシーツおばけは、どちらかというと被っている側の体感としてお化けなのであって、外からみてそこまでお化けでなく、よくよく考えないとアイコン的なお化けにもみえようもない気がするな、とおもった。

電話が花京院にいけ、というのでそこらをぶらついた。
木が視界にあまりはいらないから、変に早足になっておもったよりもはやく花京院についた。電話にそれでどうするんだ、ときいたが、なにもこたえてくれなかった。仕方がないので公園にいった。そよそよとシーツをはためかせながら、まばらにひとをみていた。幽霊の練習もだいぶ様になってきて、すこし浮かれていると、知っているはずのひとが公園のなかを通った。私はその人にたくさん謝らなくてはいけないことがある。でも幽霊だから、どうしていいのかわからない。電話にシーツを外していいですか、ときいたが答えない。知人が公園を去っていく。幽霊だから、私に気づきようもない。そういう意味では、シーツお化けはほんとうに幽霊の練習になりうるな、と歯の裏でいい、でも、その知人に言わなくちゃいけないことがある。私はシーツを脱げないままだ。私はシーツごしに知人の肩をつかんだ。言わなくちゃいけない。


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