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または最後の楽器について(偽日記57)

生活のこと。仙台の春はすこし遅れてくる、とおもうのは、そうじゃない春を知っているからで、去年のいまごろ私は京都にいた。そのときはなにかを終えて、なにかを始めると決めたときで、そのなにかがなにだったかはもう思い出せないくらい遠く、もしいまの春と去年の春が重なったら、私と私のそれぞれはみでた輪郭の、違いのぶんだけ記憶もずれていく。散歩ばかりしている。あるいているとくちびるに触れる空気が、空気のなかに保存された暖気が嬉しい。

数日まえに「ダンサーインザダーク」を映画館でみた。もう日本で劇場公開の権利がなくなるとかで。ラースとビョークのあいだでおこっている(というか掘り起こされた)問題については考えずにみた。ラース・フォン・トリアーもビョークも、それぞれアーティストとして好きだ。私は極力作品と作り手は切り離して見たい。けれど完全に=で結ぶことをゆるさないのも愚かだとおもう。優れた作品と不完全な人間のあいだで観劇する我々は苦しむことになるが、少なくともそう苦しむだけの価値のある、素晴らしい映画だとおもう。

無職で金はないが友人と喫茶店にいくくらいのことはできる。
来るたび古びていくようなその店は案外しぶとくずっとあってくれて、でもあと十年したらなくなるかもな、とか考える。そうなったらこの友人とは会わなくなるかもしれない。
「うまい、ケーキ」
そうだね。
「コンビニにはないうまさ……」友人はそういってケーキを細かく削るように食べた。器用な指の動き、その延長のフォークが乱射するひかりをみていた。「芯があるうまさ……」
あのさ、みてほしい花じゃないから、って凄くいい歌詞だよね。
「そうだね」と友人はいった。友人はカップのふちを手で撫でた。珈琲はとっくに冷めている。「でも歌えば歌うだけ、それこそ刺繍の花めいていくから、歌う喉は仮想で、でもだからこそ尊いかもなあ」
私はもう一杯のんだら行こう、と友人にいった。そしてほんとうはただ「誰の曲?」ときいてきただけで、この日記のなかで書かれたことなんてひとことも発してはいない。彼はケーキでなくハムサンドを食べていた。

「ダンサーインザダーク」ではなんらかの音を契機としてビョーク演じるセルマのミュージカルがはじまる。その法則においてずっと気になっていたことがあって、最後の歌(最後の歌じゃないと歌われるし、EDの曲もあるのでややこしいのだが)、つまり劇中では最後の、セルマが絞首刑に処される直前の歌(曲名は「Next To The Last Song」)は、DVDで見た際には契機となる音がわからず、これまでの法則を無視しているのでは?とおもっていた。もちろんこの最後の歌は劇中のどのミュージカルシーンとも異なり、完全にリアリズムのレイヤーで描かれているから、他の劇中歌とはまったく異なるものではあるのだけれど、それでも契機となる音がないのは明らかにそれまで描かれた表現の連続性を失っており、すこし納得できないポイントだった。しかし、実際は違った。

どこに出すでもない小説を書いたり、さいきんwebで公開してもらったじぶんの小説を読み返しながら、描写のことを考えていた。というよりかいつも考えていること、すでに実作に盛り込んだことをまた考えていた。
文芸(の表現上)の身体描写についてよく考えるのは、たとえば『彼女は花瓶に手を添え、ふいにもちあげ壁に投げつけた』と描写したとき、特別表記しない限りは大体の場合においてマジョリティ的身体が像を結ぶこと。(5本指の手、2本ある腕,etc)
これは、文章における描写とはそもそも(マジョリティの)規範を間借りして像を結ぶ性質(の/も)ある表現である=映像ではない、ことの証左で、恣意性と偶発性の両方が映像と比べて格段に高く、かつ映像と違って語る主体がそこに挟まるからこそ描写は単純にその情景の喚起だけで処理されることはない(とはいえ映像だって撮るからにはそこにもまた語りは入るのだけれど)。それをそうとして語る主体が何で、なぜそう処理するかがわからなければ読めないし書けない。もちろん身体は例のひとつで、あらゆる語が、書き加えて行かない限りはそういった様相を帯びる。語り手は人称を問わずリアリズムかどうかを問わず、たいていはそういった制約のなかにおり、私はそれに自覚的でありたいし、これまでも大なり小なり自覚的であったとおもっている。畏れ多くても。

「Next To The Last Song」だけ法則/連続性から外れている、とおもっていたのは、単純に私が見逃していたからであることが劇場で観劇することでわかった。劇場のスピーカーできいていて気づいたのだが「Next To The Last Song」はセルマの心臓の音を契機としてはじまる。DVD視聴のときは音量の問題と、それまで契機になる音はあからさまに示されていたがゆえに見逃していた。劇場でみてようやくきこえた最後の楽器の音をききながら、映画を見終えて、家に帰り、天井をずっとみていた。




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