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記憶の編集法(偽日記 縺ゥ縺ョ譎らゥコ縺ォ繧ゅリ繝ウ繝舌Μ繝ウ繧ー縺ォ繧ょア槭&縺ェ縺)


私は生きている。
上記の「私は生きている。」と書かれた文章は、嘘ではなく、虚偽ではなく、偽物の日記のなかで唯一正しい記述。
偽物であると、すべてが偽である可能性を孕むと申告されたテキスト内で、正しいと表明された記述。
現実であると担保された文章。
例外的にフィクションの手から免れようとしてる。
しかし、この表明でさえフィクションの手から逃れられないのだから、
偽物の日記という空間内で正しいことを述べるのは不可能であり、
偽物を書くと、虚偽を行うと宣言した瞬間から、私はあなたに何一つとして、正確な、正しい、無垢な言葉を伝えることができなくなっている。
だから
私は生きていると書くとき、私は死んでいる。
私は死んでいると書くとき、私は生きている。
虚偽の煙るなかで、その不確かさが私の心臓を止め、また動かす。
あなたはいずれも肯定する能力を失い、否定する能力さえこの空間に踏み込んだ段階で失っている。
私は私を書きながら私を失い続け、同時に私を創造し続ける。
割れた鏡しかない部屋で、私はあらゆることをおもいださなくてはいけない。
もはやこの場所では、私は私であること、あなたはあなたであること、私はあなたであること、あなたは私であることから目を背ける方法がないのだから。

だから、私はいま東京タワーのてっぺんにいる。
「わたしは慎吾」を放り投げて、そのインクまみれの翼で飛ぶ鳥のはためきにあわせて、私は飛ばなくてはならない。私は下をみる。人がいくばくか歩いている通りがみえる。フレンチブルドックを連れた女性がくしゃみとともに立ち止まる。植栽に囚われた木々が身動きが取れないまま悶えていて、そのからだに風船の糸が絡まっている。風船の持ち主とおもわれる小さな子供が泣いている。その脇を私はとおるが、子供を慰めることも、風船をとってやろうともしない。私はポケットに手を突っ込み、横暴な態度で歩いている。もしかしたらタバコを咥えており、通行人のなかで面倒ごとに関与する胆力がある人間から注意されたのに、無視して歩き続けているかもしれない。もしくは立ち止まって、その人物にナイフをさし、その人物の瞳にコカイン中毒者特有の特徴をあらわにした顔を写しているのかもしれない。すべての行為を悔い改め、数歩時間を巻き戻して子供のために風船をとってあげようとしているかもしれない。失敗して風船を割ってしまい、代わりにアイスクリームをご馳走すると子供に交渉をしかけているかもしれない。それらの、パラレルな私を置き去りにして、私はひたすら風景の幕をうしろにまきとりながら行進する。どうやらそそっかしい私はつまづき、幕に手をかけてしまい、そのまま転倒する。幕は役目を終えた性器のように萎み、枯れ果て、地面に横たわる。私は幕の葬式を行うべきか考えるが、背後から(つまりあなたから)肩を叩かれて振り返る。あなたはナシゴレンを食いにいこう、と私にいう。私は頷いてプールからあがろうとする。はじめて訪れたバリ島の空気に、まだ5歳だった私でさえ異国情緒を感じている。私はプールサイドにあがろうとするが、白人の少女……おそらく、7歳は8歳で、私と同様に親に連れられてきた意識なき旅行者だろう……にプールサイドのうえから蹴られてプールに再び沈んでしまう。鼻のなかにはいった水が痛く、泣きそうになってしまうが、もういちどあがろうとする。少女は蹴る。私は落ちる。私はプールサイドにしがみつく。あなたは蹴る。私は沈んでいく。プールのなかで私は泣いているが、誰がそんなことに気づいてくれる? 私は泣き続け、なにもかもが濡れて台無しになってしまう。そんな私のあたまを祖母の手が優しく撫でる。そんなにないたらお洋服がだいなしだよ、と祖母は笑う。私の涙は、私のお気に入りの青いワンピースを水玉模様に変えてしまっている。祖母は居間に戻って、そうか水玉ならこれがある、と母が幼いころに気に入らなくてつけなかったという水玉柄のリボンを私につけてくれる。ミニーちゃんみたい、とあなたはいう。そして、迷子なのかな、という。私はとりあえず迷子センターに連絡しようよ、という。しかし、ディズニーランドに迷子センターがあるのだろうか。私は近くにいるモップで地面に絵を描く清掃員に声をかけようか迷ったが、パフォーマンス中がゆえに邪魔する気になれず、あなたにミニーちゃんを任せてインフォメーションに向かうことにする。インフォメーションにいるあなたに、迷子センターはここですか、ときく。インフォメーションの職員は、いいえ、ここは風俗の受付です、という。なるほど、と私はおもう。私は提示されたパネルのなかから、一番美しくみえるキャストを選ぶ。私は部屋に通され、ブラウスのボタンを外し、スカートを脱ぎ、シャワーを浴び、化粧落としで顔を溶解させて、髪もちゃんと乾かさないままベッドに飛び込む。あしたも会社か、と鬱々とする。なんだか寝る気にもなれず、友達に電話をかける。彼とは高校からの友人で、よくふたりで自転車を走らせてラーメンを食べ歩いたり、18歳以上のふりをしてパチンコ屋やAVショップにいったものだ。彼はあと数ヶ月で結婚するはずだが、精神的な問題で薬を飲み始めたのはさいきんで、しかもいまは慣れない土地で働いているから、私は心配で仕方がない。彼がでる。「俺らも26かあ……」と月並みすぎる話題に突入し、「おまえはいつあの子と結婚するの? お前が家庭を、奥さんを、子供を持つなんて正直想像できねえけどな」といわれる。俺だって想像できなかったよ、と私はいう。「でもこうしてちゃんと式場まで借りてさ、まあよくやったよな」彼はそういって私の肩を叩く。私は隣で微笑む恋人に、いやこれからの妻に、パートナーにあとでからかわれないよう、はにかむのをなんとか我慢する。ひとまえでキスするなんて、ちょっと変態っぽくないよく考えたら?「そういうどうでもいいことばっか考えるのやめなよ」と彼女はいう。まあ性格だから、と私がいうと「性格があうあわないの段階を超えて、生物として生活が不可能/不能/कुत्ते की खोपड़ीなんだよおまえは」とあなたがいう。それはこっちの台詞だ。あなたは、なんど私や母や弟を傷つけ、傲慢にもあなたのメランコリックと暴力のなかで和解を求め、そして数ヶ月後には再び誰かがあなたの拳のなかで血を流してきたとおもっているんですか、父さん。


(日記2019.6.2)ひるま晴れてたかどうかおもいだせない。夜にこぶしの雨がふったので、俺のあたまはぐちゃぐちゃだった。ひるまが記憶から取り払われるくらいの日曜日だ。救急車にぶち込まれたとき財布をもっていなかった。水をもらえませんか、ときいたら看護師に自販機で買うしかないのだと告げられ、金を貸すこともできないといわれる。仕方がないのでトイレにいって、洗面台の水を飲む。鏡。綺麗な鏡。消毒はしてもらったけれど、切れた額から流れて固まった血は拭いてもらえなかった。深夜に緊急搬送なんてされたことなかったから、こんなに不自由させられるとは知らなかった。いらついたので血ついたまま夜を明かしてやる。親父捕まったわ、と友達にLINEする。「まじ?」現行犯逮捕だ「まさかおまえ?」そう俺「ついにか」そうだね「難儀じゃなあ」まったくだ。でも、まあいつかそうなるとわかってたことが起きたので、友達は「なんかめっちゃ煙草吸いたい夜じゃん」という。その通り、エモエモな場面だ。病院なので吸えないのが本当に惜しい。家庭内暴力の加害者の現行犯逮捕は民事不介入の観点からなかなかないのは体験上しっていて、でも警察突入時に錯乱していた親父は包丁を振り回したあげく警察にも刃を向けたようなので、そりゃ捕まるだろとわらう。わらいながら親父は2箇所も噛んだ。園子温映画みたいなコミカルなわらいごえだった。あれわりとリアルなんだなとおもった。親父の爛々とした目はやにで茶色い。噛まれた右手首と肩甲骨のうえ、消毒液と固まった血の歯形も茶色い。凄く痛い。痛みはあたりまえのようにあとからくるので、取っ組みあいを主とするなみじめなやりとりのなかで、競り負けて100kg以上ある親父馬乗りになられタコ殴りにされていたときも、さほど痛くはなかったのだ。なんで、こんな、と俺はいった。1単語ごとに殴られる。むかしは幸せだったじゃないか、ううう。嘘だ。むかしから幸せではない。母親は重い皮膚病だったし、妹はうまれてすぐ亡くなった。次男は睡眠障害で不登校だったし、三男は喧嘩ばかりしている。ただ俺が五歳くらいのとき、まだ目の血走りがなかった親父(つまり、度重なる失業や事業立ち上げの失敗、親友から詐欺にあい数百万を失い、某宗教にそこまでのめり込んでもなかった、笑い飛ばすしかない月並みなスラップスティックに精神をぶち折られるまえの父)は、布団にはいってくると、ふるびた毛布を洞窟にして「蛇だぞお」といいながら両手でくすぐってくれた。その日の、そのシーンだけ心情のなかで再現して泣いていたのであって、頭脳は嘘だとわかっていたけどそういう半演技で乗り越えられたこともある。暴力はするほうが疲れるので必ず小休止が伴う。その間で、親父はたまたま床に落ちていたボールペン(というか乱闘で大体の家具は倒れていたので、そのどれかから転がってきたのだろう)をみつけて手にとった。
「目ぇ潰してやる」と親父はいった。「脳みそかき混ぜてやる。小説なんて書けないからだにしてやる」
 またつくりものみたいなわらいごえ。正気じゃないか、正気じゃないふりをすることで暴力をどうにか持続させようとしているなとおもった。ここで死ぬのかもとおもうと目のなかで部屋が広い。母親が泣いている。泣くだけである。黙って泣く機能しかもう残っていない母親をいまさら責めても死は近い。けっこう高いソファの足が折れている。鏡が割れている。破れた障子の桜吹雪に血が走っていてやや格好がいい。天井に俺か親父から飛んだ血の点。点。黒点。ペン先が近い。なんとか組まれていた左手を逃してとめようとする。ペン先の黒がでかい。受けとめられない圧のなかで黒がとてもでかい。視界の五割以上が黒くなって、ああこれからずっと黒いのかもとおもったら駆けつけた弟が親父にタックルかます。よくやった!弟も噛まれる。なんでそんな噛むの大人なのに、とおもっている暇もなく裸足で逃げだす。地獄の犬みたいなこえが背後からきこえる。「包丁!」とだれかがいった。スマホはない。隣の家のチャイムを連打する。玄関に雪崩れ込んで勝手に鍵をかける。喋ろうとしたら口にたまってた血がどばっとでてしまい本当に申し訳ない。110番してください、といい、そのあと警察になにをいったか覚えていない。「なんでそんなことになったんじゃ」と友達からLINEがくる。エビチリだ、という。「は?」なんかセブンで買ったエビチリ温めて蓋を流しに放置してたらぶちギレたんだわ「は?」よく考えるとエビチリで死にかけたし、エビチリで親父捕まったんか「たぶんこれ、1週間後にはネタにできるやつだな」だろうな。そういう身捌きで生きてるしたぶんこれからもずっとそうだから。「小説に書けよ」嫌だよ。俺のことなんて俺の書く手にかかせたくねえよ、汚らしい。そもそもこんなことを書くためにある文学形式じゃない。悲嘆も、歓喜も、社会学も、精神学も、政治も、なにもかも連脈として流れる語りがすべて飲み込むのであり、結果的な効果とその迸る語りこそ小説なんだというのが俺の唯一の信仰だから。
 朝。MRIだかなんだか。異常なし。傷害なので健康保険適応外といわれる。8万。最悪だ。母親がくる。被害届をださないでくれ、といわれる。いやさすがにだすと俺はいう。星の子と田中慎也の小説足したような人生これ以上やってられん、どっちも読んだことないけど。喉がめっちゃ乾いている。泣いている皮膚病の母親に、それこっちにこぼしてくれよといいかける。
 医者のカルテに俺の症状が書いてある。いくつもある名目のなかに『人咬傷』と書いてある。そんな単語はじめて知った。これなんて読むんですかと俺はきく。医者が怪訝な顔をする。え、これ、じゃあ鰐に噛まれたら鰐咬傷って書かれるんですか。

バロンがまぶたの裏にいる。
ランダは?
もうバロンもランダも踊らなくていい。

「つまり、君は殺されかけたと認識しているはずだよね」と検察官がいう。私は押し黙る。「我々は、正直きみのお父さんはかなり危険な人物、社会にいまのまま放置できない人物だとおもっている」私は押し黙る。あなたは、それでも、あなた、母さんは、いまからだってなんの問題もなく家庭が機能していくというんですか?私には、ずっとむかしから、そう、私が不可知論者として、あなたの信じるものと距離を置いてから、私は、父親の目の色を表現することができなくなってから、そんなことは不可能だとおもっています。

こないだ、と私はいう。本物の牛タンを食べたんですよ。
そう、牛にディープキスをして、これが生の牛タンさしだぜってね、そういってやったわけですよ、酪農家どもにね。

でも、確かに私はあなたの手を掴んでいる。だから、泣かないで欲しいとおもう。あなたは「苦しい、苦しい」といいながら向精神薬を飲もうとする。過呼吸になっている。私は車をとめて、落ち着いて、という。「私なんか死ねばいい」とあなたはいう。私はあなたを愛している、いまも。大学生一年生のとき、私はあなたにふられて、じゃあ小説で賞をとったらもう一回でいいからデートしてくれ、といった、その意味不明な約束のために小説を書いている、そしてこのときあなたの恋人として、あなたの側にいるのに、なにもできないでいる。そしていまはもっとひどい、あなたはからだを売って生きるしかなくなり、私は無職としてここで、この割れた鏡しかない部屋で、こうしてキーボードのうえを指だけが跳ね回る。その指が、書いている。書いている。私はあらかじめ失われている。だから書いている。私は、あなたは、私たちは、あなたたちは、あらかじめ失われた世代だからこそ、記述し、あらゆるものを書き換えようとしている。

未来を書き換えることができるように、過去も書き換えることができる。

「我々はより良い未来を目指し、ひとまとまりのテキストを選び、思想を選び、その未来に向かう。」

そしてそれ以外の未来が死ぬ。

「我々は記憶を有するが、それを我々自身でさえ正確に表現することなどできない。それゆえに、もし記憶に、我々が我々として虚偽を植え付け、それが嘘であると自覚的でないとき、その虚偽の記憶はその他の真実らしき記憶となんら重みは変わらない」

過去が死んだとき、しかしそれは(偽物の記憶として)再び構築可能なのであれば、そのパラレルは死んでいるといえるのか?
むしろ生まれていない過去だ。
まだ胎内のなかで育ちきっていない私の赤ちゃん。

それなら私は、損なわれた未来や過去を取り戻すこともできる。
すくなくともそれらに対して運動を試みることができる。
そして現在も。あらかじめ失われている現在さえも。
私はあなたは手を伸ばすことができる。
しかし、だからといって、この部屋に散らばっている、死んだ未来や過去の、パラレルな死体が、消えてなくなるわけではなく、消えてなくなったとしても、その記憶は消えず、だから私のあたまのなかでは輪廻転生が成立しうる。

私は部屋にいる。
私だけの、いっさいの比喩もメタファも入り込む隙のない、
部屋でしかない部屋にいる。

だからせめてここが安らかな場所だと、水を含んだ風のなかに散った花びらが織り込まれた、一面の花畑、熱帯的な息の交換、眼の乾くことのない、うるおった声の響く、果てのない楽園であると、そういう嘘をつく。

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