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日常 すすむすすむ


 先日、大学のカウンセラーの方に

「話せるようになりたいのですが、どうしたら良いかわからず悩んでいます。」

と書いた紙を見せました。

先生は、私から正直な気持ちを聞けたことが嬉しいようでした。

実は、この気持ちは今年の夏休み前からずっと心の内に抱え込んでいました。
だから、カウンセリング中も「筆談で雑談をするより、話す練習がしたいな」という気持ちを抱えながらモヤモヤした気持ちで過ごしていました。先生もそれに気づいていたのかも知れません。

それから、話す練習をしようということになり、まずは練習方法を決めることにしました。

その日はしりとりに挑戦しましたが、喉に力を入れることもできず、結局筆談でしりとりをしました。

その翌週からは、とりあえず雑談をする中で、「可能であれば口頭で質問に答える」という形でやってみようということになりました。
しかし、いつも通り「○人」や「○日」などの数字しか答えられませんでした。
(今週もこんな調子でした。)


 克服の為に今まで以上に努力すると決めてから、noteなどのSNSツール、書籍で場面緘黙を克服、あるいは改善されている方を見かけると今まで以上に自分を責めてしまうようになりました。

ある日、
「場面緘黙症は病気でも障害でもないものです」
と書かれた投稿を見つけました。
その方は4、5年前に場面緘黙症を克服された方でした。


「克服したからそんなことが言えるんだ…!!」

ついついこんなことを口走ってしまいました。

でも、これは本心でした。


 私にとって場面緘黙症は、世間と私の間を隔てる大きな『障害』でしかありません。

場面緘黙症で良かったことや、場面緘黙症のおかけで得られたものなど、ひとっっつもありません。

 恐らく、この大きな壁がなくなって(ぶち破って)この向こう側に行けた人からすれば、場面緘黙症は治るものだし今こうして克服できたから、あの時「病気だ」「障害だ」とあんなに悩まなくても良かったのにな…という気持ちや「個性として受け入れれば良かったのかも…」という気持ちがあるのでしょう。

 しかし、その渦中にいる人間からすれば、
「個性として受け入れる」
=「克服を諦める(話せない苦しみを背負い続ける)」
ということにしかなりません。

「場面緘黙症である自分を受け入れます」なんて、絶対に言えません。自分の苦しみや生きづらさの根源を受け入れることなどできるはずがありません。


と、こんな調子でその方に向かって心の中で訴えかけたりしています。

 又、自分に対しても
「私みたいな人間(というより擬人)は、他人にも迷惑をかけるし、死んだ方がー」
とか、
「どうせこのままロースクールに行っても話せないだろうし、法曹にも絶対になれないな…早めに死んどいたほうがー」
という調子で罵りまくっています。

なので、前よりも死への恐怖が小さくなった気がします…



そんな苦しい日々が続く中で、ひとつ嬉しいことがありました。


SEKAINOOWARIのファンクラブツアーに当選したのです。

実は長期会員先行受付で落選してしまい、さらに希死念慮を強めていたので、2回目の抽選で当選した時は飛び上がって喜びました。


これで暫くは何とか生きていられそうです。



死にたい時は、本当にいつもそばにいてくれる人達です。




まだ死ねないや。

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