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桜の木

『た子の足跡日記』ー有料老人ホームにてー


病院の真ん前に1本の桜の木がある。
病院の前に立っているこの施設の5Fの窓から、その桜はよく見える。
桜の花が咲く季節は窓からお花見が出来る。
特にマサハルさんの部屋からの眺めは最高だ。

2月、まだ桜は細い枝の先が冷たい風を神経質に捕らえていた。
マサハルさんがその桜の木を窓越しに眺めて私を呼ぶ。
「ちょっと、ほれ、あそこに子供が居るんじゃないか?」
「えっ、子供ですか?」
「あんな所に登ちゃって、降りられなくなったんだな~
下でお母さんが心配そうに見てるわ」

桜の木の方を見ても誰も居ない。

「早く誰か降ろしてやれや~」

きっとマサハルさんには、何かがそんな風に見えているんだと思うんだけど・・・
木にコブが有る分けでもなし、枝が重なってもいないし、首を横にしても、目を細めても子供が居るようには見えないぞ。

何て答えようか迷ってしまう。

「お母さん居るから大丈夫ですよ」
と、答えて部屋を出た。

次の日もまた
「木の上に子供が居る」
と、言って私を呼ぶ。
聞いたらそれは小学校低学年くらいの女の子らしい。
今日はお母さんは居ないと言う。

「子供が居る。危ないから早く降ろしてやらないとなあ」
は、何日も続いた。

毎日忘れて、見る度言っているのか?そこは定かでは無い。

以前、中庭の園芸用のホースを巻き取るドラムが犬に見えて
「あの犬、可愛そうだから早く中に入れてやれ」
と、言っていた事があった。
それはもっともだ。
私も確かにそのドラムが小屋の外で凍える犬にしか見えなかった。
そのホースは片付けたので一件落着した。

でも、桜の木に登っている子供はどうしても、どうしたらそんな風に見えるのか全く分からなかった。

仕方無く、私には何も見えない。木に子供なんて登っていないと言った。

でもやっぱり見える物は見えるんだよね。

しかも夜、月明かりと、ほんの少しの街灯に照らされた木を指さして
「ほら、あの木に子供がいる」
と、言われた時は少し怖かった。いや、大分怖かった。

他のスタッフは私がマサハルさんがこんな事を言っていると説明すると
「何かがそう見えてるんだね」と、それほどこの事を気にする人はいなくて、「はい、はい、子供が居るのね」と、明るく軽やかに返して、あまり話題にしなかった事が私には余計怖かった。

病院前っていう事もあるし、もしかして、もしかする?
恐怖映画の見過ぎかな?


マサハルさんは桜が満開の時に病院で亡くなった。

優しいマサハルさんは、きっと子供を木から降ろしてあげているでしょう。



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