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空気のお返し

『た子の足跡日記』ー有料老人ホームにてー

タロウさんは森のくまさんみたいな大男だ。
車椅子に乗って自操しているのだが、車椅子はおもちゃみたいに見える。

いつもお腹を空かせている。
「何か食べるものちょうだいな」
と、手を差し出してくる。
慣れるとそれは挨拶みたいなもので、差し出された手にグーを乗せて
「はい、空気!」
と、渡してやるとニヤリと笑い、そのまま何処かに消えて行くのが常である。


そんなタロウさんの毎日の日課は、施設内をうろちょろして何か口に入るものを探すことである。
カーテンの留め具、洗濯ばさみ、その辺に飾ってある小物、クリップやマグネットなど・・・・
一度口にしたものは二度とその場に置かないようにしているので、施設内はぱっと見殺風景なほどになっている。
およそ口に入りそうなものは最初から手の届かない場所に置いたり、面倒でもケースに入れて保管したりと、スタッフもありとあらゆる手を考えて工夫しているのだ。
しかし、タロウさんはその上を行く。

ある日Aさんの入れ歯が無くなった。
Aさんは入れ歯を自分で外してしまう癖があるのでもしやと思い、ゴミ箱や洗濯物の中を探したり、掃除の方や食堂の方にも頼んで大掛かりな捜索が始まった。

しかし、スタッフの一人が食事の後、入れ歯は外してケースにしまったはずだと言うではないか。

そんな話をしている矢先、タロウさんがいつものように車椅子を漕いで、のこのこと私の横を通り過ぎて行った。

ちらりとタロウさんの方を見てその口元に違和感を感じ
「ちょっと、タロウさん、お口を見せてもらえませんか?」
と、タロウさんを引き止めた。
見た瞬間、「プッ」と吹き出してしまった。
なんと、自分の入れ歯の上にAさんの入れ歯が重なって入っていて、マントヒヒの口の様に膨れ上がっていた。

タロウさんはきょとんとして
「何がおかしい?」
と、もごもごとこもった声で言った。

「タロウさん、その入れ歯返してくださいよ〜」

「これか?これね。はい」

と、Aさんの入れ歯を口から出して私の手に乗せると、ニヤリと笑って何処かへ消えて行った。

それは「はい、空気!」のお返しのように感じた。



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