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イギリス、徒然と。ー5.日中韓ー

美術大学への留学だが、最初の半年は美術とは無関係で、後に通うことになる大学に付属する語学学校に通った。当たり前だが、初日のクラス分けのテストで1番下のクラスとなったし、1番下のクラスでも授業に付いて行くのはやっとだった。私の乏しい知識でも、1989年なら「nineteen eighty-nine」と、英語では西暦を2桁ずつ分けて言うことは知っていたが、私がイギリスに行ったのは2000年代初頭だったので2桁ずつ分けて言わないということにすら戸惑った。語学学校でも、買い物でも、ホームステイ先でも聞き取りができないので、なんとか言っていることがわからぬかと常に相手の口の動きを凝視していたら、目の過労なのか、まぶたが常に痙攣するようになった。

1番下のクラスには英語の苦手な国出身の生徒たちが集まった。つまり、日中韓である。乏しいボキャブラリーで拙い英語を話す者同士は、案外すぐに意思の疎通ができるようになり仲良くなった。仲良くなると、韓国人クラスメイトのソンワンから韓国語を教えてもらうようになった。誰よりも英語を勉強しなくてはいけない身なのに、家に帰ってからもハナ、ドゥル、セッ、ネッと復習した。韓国語は現実逃避だった。

イギリス英語というものを全く知らなかった私は、新しい単語を覚えることだけでなく、綴りの違いにも翻弄された。centerではなくcentre、colorではなくcolour。語学学校にはダイアンと言う、髪の毛がとてつもなく長い、顔がサラ・ジェシカパーカーに似たアメリカ人の先生もいた。彼女は、同じ文章の中で統一すれば、アメリカの綴りでも良いと言い、私はアメリカの綴りを布教したいんじゃないかと疑った。1番ランクの下に属する生徒たちは、自分の聞き取った宿題の内容が正しいか、授業が終わると日中韓に別れて確認する。日本人3人が集まって、ここのページまでだよね、いや、こっちのページもじゃない、なんて日本語で話していると、ある日、ダイアンが私たちの宿題確認の会話に入ってきた。そのことを不思議に思いながら宿題の範囲を明確にすると、ダイアンは日本に住んだことがあるから日本語はわかるの。だから、話題には気を付けつけなさいねと笑いながら言った。

語学学校の終盤には、刑務所から出てきたばかりの先生が登場した。”Prison”に居た、とは言わず、いつも”I was behind bars.”とか”When I was doing time”と言うので、そういう言い回しがあるのだと勉強になった。そこまで言うのに何をして刑務所に入ったかは決して言うことがなかったのでやきもきした。それぞれのクラスにはメインの、日本で言うところの担任の先生が居り、私たちのクラスの担任はジュリアンというロンドンから引っ越してきたばかりの中年男性だった。彼はキャロットケーキやジンジャーケーキをよく作ってきてくれて、授業中にみんなで摘んだ。夕食はフルーツだけで済ませるというのに、なぜかちょっと太っていることを疑問に思った。

折角イギリスに来たのに、来る日も来る日も先生以外は日中韓としか顔を合わせない半年間の語学学校を終えると、1年間の大学入学準備コースに進んだ。大学の美術学部への準備に特化したコースで、英語と美術系の授業で構成されていた。つまりここも英語ができない人たちが集るところで、このコースにいるのも日中韓だけだった。語学学校で一緒だった友達もいた。

美術の授業は、美術学部にある学科を1週間ずつ経験してみるもので、デザイン、ファッションデザイン、テキスタイルデザイン、グラフィックデザイン、映像、写真など、それまで触れたことのない分野をほんの少しずつだが齧ることができた。写真の授業では、学校から貸し出されたフィルムカメラと2本のフィルムを手に、皆で電車に2時間も乗ってスケグネスという街に行った。海沿いの、小さな遊園地や、アイス屋なんかを写真に撮って周ったが、フィルムを取り替えた時に感光してしまい、後日、学校の暗室で現像できたのは数枚だけだった。テキスタイルデザインは、屋根から光が贅沢に入る雰囲気の良いアトリエで、豊富に取り揃えられた様々な色や形態をした織糸から好きなものを好きなように組み合わせて織り機で織った。織物のことをウェービングということを知った。始める前はあまり興味を持っていなかったのに、自分でも驚く程に熱中し、担当の先生からは「あなたの首はずっと下を向いたままね」と言われた。私が熱中したことをよくわかってくれた先生は授業の最終日、作品の端を結んで切って織り機から取り外し完成とする日に、私には端を結ばずに糸を長く切って持って帰れば作り続けられること、使いたい糸はアトリエにあるものを必要なだけ切って持って行って良いと言ってくれた。映像の授業では、初めてアニメーション動画を作ることができた。粘土を使ったストップモーションのアニメーション。「みんなのうた」でよく登場する、粘土や人形など動く筈のないものが動く映像が幼い頃から好きだったので、しくみがよくわかったし、自分でも同種のものが作れたことが嬉しかった。私は、日本の美術大学は油絵科を受験していたので、イギリスではそれに当たるフィンアート科に行くと最初から決めていた。だが、テキスタイルデザインというかウェービングに夢中になったことで、テキスタイルデザイン科と迷い、テキスタイルデザイン科にしようと決める寸前のところまで行った。だが、そうするとアニメーション動画が作れなくなってしまう。逆に、フィンアート科に進めば、フィンアートと言いつつも何でもありで、ウェービングでテキスタイルを作りそれを作品としても何ら問題が無いくらい範囲が広い科なので、アニメーション動画が作れるという理由でフィンアート科に決めた。

最後に、修了作品展を開いた。この頃には、先生が言っていることもわからないなんてことはなく、英語には不自由しないようになっていた。終了作品展を見学しに来た美術学部長に、私のとある作品の制作意図について訊かれた際、「これはただの直感で作りました」と言ったら、「君は直感なんて言葉を知っているのか」と言われたことが嬉しかった。

1年間の大学入学準備コースを通して、「日中韓」はかなり打ち解けた。広い部屋に住むクラスメイトのところにみんなで集まり、徹夜で楽しむこともあった。そこではいつも、韓国の家庭料理が登場した。イギリスに発つ前夜、叔母に連れて行ってもらった韓国焼肉屋で、メニューに書かれていたハングル文字を文字とも知らなかったのに、簡単なやりとりなら韓国語でできるようになったし、この時から3年後の大学最終学年には第二外国語で中国語を選択した。大勢いる筈のヨーロッパ諸国からの留学生と関わりが無いことを残念に思いはしたが、今現在も韓国語と中国語の勉強は続けているので、留学初期を日中韓の中で過ごしたことは大きい。

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