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流刑地にて/松下隆志『ロシア文学の怪物たち』(書肆侃侃房、2024年)


 子供の熱が下がらない。この三連休、断続的に悩まされている。頓服の解熱剤を飲んで、少し熱が下がったと安心して、またしばらくするとぐったりしている。ふだん元気であちこち転げ回っているのに、クッションや私たちの体に頭をもたせてくる。笑顔も少なく、元気がない。

 ♯8000という、子供の体調が悪い時に相談を訊いてくれる番号があり、それに何度かかけてみた。夜中には繋がりにくかったが、数分繋ぎっぱなしにしていたら、女性の看護士さんが出て、食べた方がいいものや、近くにある病院の調べ方を教えてくれた。夜中と、もう一度朝にも掛けた。幸い、近所の病院が休日の当番医になっており、もう少しで電話をかけて連れていくつもりだ。

 子供のことで悩む時、誰に相談していいかわからない。そういうときに、強く孤独を感じる。会社にも行っていないので、自分の身分を確認できる瞬間も少ない。両親は遠くにいるし、友人も状況を知らない。家族でとりあえず情報を集め、考えなければならない。そういうとき、公的な支援があるととても心づよい。新宿区に住んでいた時は、助産師さんや保健所の職員さんが何度か来訪しとアドバイスをくれた。電話での相談にも親身に乗ってくれた。

 子供が産まれて数ヶ月後のものすごい暑い夏の頃だった。その日は天気がよかった。陽が照りつけていた。助産師さんたちが来てくれて、子供の様子を見て、私たち親の声を聴いてくれた。悩みを吐露する私たちに対して、決して否定的な表現は使わず、いろんな子がいる。大丈夫。子供は強い。今の状況がいつまでも続くわけではない。あなたは何も間違ってはいない。と励ましてくれた。人の存在が救いになるのだと、強く感じた。

 今は朝の6時半。みんなもう一度眠った。暗い部屋の中で、初めて携帯の画面で文章を書いている。エアコンの音が低く部屋に染み込むように聴こえる。カーテンを閉めて、強く陽を遮っているから、今が何時かもわからない。スキーに行く日の朝みたいだ。

 松下隆志の『ロシア文学の怪物たち』という本を、数日前に神保町の東京堂書店で購入した。この日買った三冊はどれも読み応えがありそうだったけれど、そのうちでいちばん不穏で、いちばん分量が少なく、そのためにまず手に取り「はじめに」を読み出して引き込まれて、一気に最後まで読み通した。確か200ページくらいの、比較的小さな本と言えるが、しかし読み応えがあった。

 本書はロシア文学の有名どころ、ドストエフスキーやトルストイ、チェーホフ、ゴーゴリなどから、現代のソローキンなどまで、ロシア文学を一通り紹介していく入門書として読むことは可能だが、それよりも特徴として、著者自身の半生が、書籍の紹介と、分かつことのできない要素として書き込まれている。その自伝的な部分のいちいちが、強烈な印象となって残った。

 著者の松下隆志は1984年生まれで、私と同い年なので、時代的には完全に同じだ。ジョージ・オーウェルの名作ディストピア小説と同じ1984という数字に運命めいたものを感じるところも共感できる。

 著者は大阪の出身だが、本書の序盤で描かれる彼の子供時代の大阪のとても暴力的で、このまま生き延びられるかわからないというような雰囲気は、読んでてその空気が伝わってきて怖かった。彼をロシア文学の「暗い魅力」に引きつけたのは、そうした幼少期の経験と決して無関係ではないだろう。

 ここで描かれる大阪に比べたら牧歌的なものだが、描写を読んでいるうちに、私もまた子供時代を過ごした北海道を自然に思い出していた。特に中学校時代の学校が荒れていたこと。授業を聴かずに、教室を出たり入ったりしていた子が何人もいて、先生が廊下で見張っていたこと、その時代のことを思い出していた。先生方はいつも怒っていた。私が怒られることはなかったが、怒る人にも、怒られる人にも、うんざりだった。

 決して嫌な思い出ばかりではないけれど、もしかしたら、あの時代にはあの時代の殺伐とした空気が、地域の差はあれど存在していたのかもしれない。深作欣二監督の『バトル・ロワイヤル』がリアルなものとして言及されていたことも、あの時代だなと思わされた。まだ95年の、震災やオウムの奇形のテロリズムの傷跡が消えない20世紀の最後の数年のことだ。

 ドストエフスキーの全集を読破したり、ロシア文学に鍛えられているからか、松下の文章力はとても高く、読むものを引き込んでゆく。自伝的な描写が各章の頭に書かれて、そこから作品の時代背景とあらすじに入っていくという構成がしっかりしているのも私にとっては読みやすかった。

 著者はそうした殺伐とした大阪での生活を経て、ロシア文学に没頭するために北海道大学に進学する。故郷からできるだけ遠くに行きたかったという彼が進学先に選んだのが北海道だというのが面白い。彼にとって北海道は、大阪から離れた極北の場所。流刑地のようなものに、私には思われた。私は流刑地で育った。私もまた、高校時代は北海道大学を目指していた。北大に憧れていた。今も憧れている。あの広大な白い土地でロシア文学を読むのはどんな気分だろう。

 各章はロシア文学の作品に当てられ、留学したサンクトペテルブルグのポストモダンな手触りと共に紹介されるゴーゴリ、北大に通いつつ、隠者のように本を読んだ日々と並行して語られる怠惰さを纏ったゴンチャロフ、SNSに支配された現在から見るとあまりにもリアルなドストエフスキー、作品も人生もエネルギッシュなトルストイ…と進む。

 この文体、文章のうまさは先述のようにロシア文学に鍛えられた側面が大きいのだろうが、本書からは松下が触れてきたものは、決してロシア文学だけでなかったことが垣間見える。柄谷行人、大澤真幸、埴谷雄高、東浩紀、いわゆる批評的なものに多く触れていることが、このロシア文学をめぐる対話に厚みを与えているのだろう。

 北大のサークルでの座禅の経験を呼び水にして語られるソローキンの章はやはりよかった。北大のクラーク会館で、たまたま立ち寄った場所で座禅会にのめり込んでゆく。そこには、本を読むことだけでは得られない具体性、空、無に触れ、それを見つめることが描かれる。

二十代前半の一時期、私はただじっと息をして座ることに集中していた。(中略)
 座禅は、そんな自分に唯一実行できた行為だった。いわば、何もしないことをすることによって、私は私の行為の不在を埋めたのだ。禅の世界には神のような絶対者はいない。一切皆空。世界を肯定するとか、否定するとか、そんな大それた考えはひとまず頭から追い出し、私はただ目の前の虚空をじっと見つめることに集中した。

(136-137)

 この本で繰り返し描かれる文豪たちの挑戦と挫折は、思えば神のような絶対者がいるなかいないのか。そうした存在を求めつつも、その不在にうちのめされる。そうした、充溢と空虚のあいだで右往左往する、西欧の極北で見捨てられた人々の暗い蠢きのように思える。そうした視点からロシア文学を探求してきた著者が、絶対者を否定する禅に惹かれたのは、偶然ではないだろう。禅によって解毒され、よりクリアにロシア文学が読めるようになったのかもしれないと、私は想像する。あるいは禅で鍛えた足腰で、より深く森の中に分け入ったかもしれない。

 本書を一気に読み通してみて、松下隆志の文章をもっと読んでみたい気持ちにならないことは難しい。それくらい、よい文章、よいコンセプトだった。装丁は美しくスタイリッシュで、持っていたい本でもある。

 子供の熱はさらに上がっていて、休日医療の病院に連れていく。各所に電話をすると、誰も彼もがしっかりと仕事をされていて、祭日にかまけている人は一人もいない。私たちが幼い頃感じたのとは別の殺伐さ、その中で消え消えに聴こえてくる優しさの声を聞き取ろうと、朝の街を歩く。短期的に大変なこと、辛いことでも、後からみたら良い日だっだということはざらにあるだろう。自由なのがすべてではない。何かに叱りつけられて、初めて気づく景色もまたある。

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