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自分史とヒルクライムの話 その1

その昔、選手時代はヒルクライマーとしてプロの自転車選手をしていたのですが、実は昔からそんなに上りが得意なんてことはなくて、むしろスプリンター、短距離選手でした。そんな自分がどうやってヒルクライマーになったのか、こんなタイミングだからこそ徐々にセルフ紐解きしていきましょう。

中学時代はスプリンター

中学校では陸上部に所属していました。体力測定の50m走でそこそこのタイムが出ていたので、(7秒7くらい?)短距離に所属していました。主な種目は200m、400m、400mリレー、そして3種B。かすかな記憶では100mのベストタイムが12秒4だったような。兄は長距離のスター選手でしたが、自分はどうも長い距離が苦手で、長距離は嫌厭していました。今思うと同じ場所をぐるぐる回るのが嫌だったのだと思います。今は、周回はなにも考えずに済むので、まあまあ好きになってきました。

そんな自分が自転車レースに初めて出場したのは当時長野県の小海で行われていたシマノ・リエックスというマウンテンバイクのレースで、小学生クラス初出場ながら4位でフィニッシュしました。そしてその冬のリッジランナーカップでは優勝していました。その後、所属していたクラブのオーナーの勧めで、ロードバイクを始め、レースに初めて出たのは中学2年の時。当時はマウンテンバイクから入ったこともあり集団走行を全く理解しておらず、いつもビリ争いをしていました。それもそのはず、そのレースは群馬CSCで行われたパナソニックカップだったのですが中学生クラスというものがなく、普通に高校生との混走でレベルが高いものでした。今思うと非常に初心者に優しくない。(と同時に中学生はそんなにロードレースしてなかった)なので、その頃はロードレースはマウンテンバイクに比べて複雑すぎてあまり好きではありませんでした。

しかし週末のトレーニングやレースで徐々に走れるようになり、秋に立川の昭和記念公園で行われたアートネイチャー・ツール・ド・ジャパンでは、中学生クラスで最後まで集団に残り、スプリントで(確か)9位か10位くらいに入りました。それで味を占めたのか、その後のレースでは最後のスプリントにかけるレース展開を心がけていました。確か当時は後輩選手にレースのコツを聞かれて、「最後まで集団にいてスプリントすればいいじゃん」(当時まま!)と調子に乗った返答をしていた記憶があります。(そんな答えをしていた自分を現代の若い選手には見せられませんね。。。)それで次の年のパナソニックカップでは高校生に混じりスプリントをして中学生クラスで優勝、そして夏のアルフレックスカップかミヤタカップか忘れましたが、そこでは2位に入りました。(共に会場は群馬CSC)その後もシマノ鈴鹿でスプリントで3位になるなど、スプリンター人生を歩んでいました。当時、所属していたクラブでも、元競輪選手のオーナーからは競輪選手になった方がよいのでは、と言われ続けていました。シャカリキのロケットユタの影響もあったかもしれませんが、今思えばおそらく陸上部で短距離をしていたからだと思います。しかし元々周回するのが苦手だったので、競輪への道は考えていませんでした。

また部活と自転車の両立の相乗効果か、短距離選手の自分が、約3kmくらい走る校内マラソン大会で3位に入ってしまい、その結果から駅伝メンバーにも選ばれ…と、その辺りからスプリントの世界からエンデュランスの世界に徐々に足を踏み入れ始めていたようです。

そしてここから高校進学になるのですが、それはまた次の機会に。

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