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1年後には死ぬつもりなら

最近、夜の散歩にハマってまして。

近場にある意外と知られてない穴場を見つける楽しさがあったり、わざわざ車で遠出して見知らぬ土地勘を付け足したりなど。

そもそも、それ以外に生きていて楽しいことなんてないのでそんなことをしているのですが。

そんな話を会社の先輩にしたら
「ここに行ってみたらどう?」
とある場所を提示され、それからいろいろあって斎場に辿り着きました。
そしてトラウマを呼び起こされました。

これは別に先輩に斎場を薦められたわけではなく、ただ単に僕の方向音痴が招いた結果なのですが。

問題なのは、僕が斎場に対してトラウマを抱いていたにも関わらず、その場所や出来事に関する記憶を無理やり消していたことにあります。

衝撃的過ぎた斎場での思い出

というのも、実は六年前くらいに亡くなった僕のおじいちゃんが斎場で焼かれているんです。

その時の非現実感というか、五体満足で亡くなったはずのおじいちゃんが棺に押し込まれて、四十分後には骨だけになって帰ってきた衝撃は今でも忘れません。
ここで僕は初めて人間の死を目の当たりにすることになります。

しかし、その時高校生だった僕は、子供でも大人でもない曖昧な価値観の中でこの衝撃をどこに収めればいいか分からず、反射的にそれを忘れることにしたんでしょう。

そんな思い出から六年経ち、たまたま立ち寄った斎場でトラウマを呼び起こされた今は、わりに清々しい気持ちでいます。

どうして人間が燃やされているのか、とか疑問に思うことはたくさんあったのですが、ある程度大人になった今となっては、宗教的な問題やお国柄もあったりなど、そこそこ大人の事情があるということを理解できるようになりました。

そこで六年越しのトラウマはおよそ精算されたのですが、次いで疑問符が一つ浮かんできました。

僕の人生がこのままだった場合、ちゃんと骨まで残るかな
というものです。

すごい人だったらしいおじいちゃん

人伝いに聞いた話でしかないのですが、僕のおじいちゃんは相当すごい人だったらしいです。おじいちゃん自身が社長だったこともあるかもしれないですが、各地域に年商何十億という会社の社長さんとの繋がりがあり、僕も実際に会ったことがある人が数名います。それから何度か話をする機会もありました。

曰く、あんなに信頼できる人間はいない、らしいです。

おそらく何百という人間と接してきたであろう社長さんを以ってして、「信頼」という言葉を引き出すおじいちゃん、何者だろうか。

僕がおじいちゃんと接した中での記憶も辿ってみました。

世界旅行に数度出かけたことがあるらしく、僕なんかとは比べ物にならないほどの知識を有していたらしいです。しかし、それを押し付けるように披露することはなかったです。
代わりに、僕が興味を持って質問したことに対してだけ、プラスアルファで興味の全てを持っていかれるような豆知識を教えてくれる人でした。

そう考えると本当に信頼できる人だと思います。
そんな人懐っこさであらゆる人を骨抜きにして、最後に僕の目の前で実際に骨抜きをやって見せてくれるのだから頭が上がりません。(トラウマに対する皮肉ということです)

そんな人が、そこまで語られるべき人生を歩んだ人が、最後に残るのが骨だけだったということを思い出して、今までの自分の人生を思い返しました。

空っぽ過ぎてびっくりしました。

無論、比較対象がおじいちゃんであるからかもしれませんが、特に何にも挑戦してなくて、誰かの人生を動かしたとかも多分なくて、今も特に何もしてないです。

もし自分が死んで焼かれたら、ちゃんと骨まで残るかな、という疑問が沸いてしまいました。

それから「死」というものを正しく認識するために本屋へ直行したところ、そこで見つけたある本のタイトルに惹かれました。

余命がある人の残りの人生がやけに美しい

この本は、ホスピス医さんである著者が実際に患者さんと向き合い、そこで培った経験をもとに「死」と「時間」という観点から「幸福」とは何かについて綴られたものでした。

この本を読んで、ようやくピンときたことがあります。
なぜ余命がある人の残りの人生が美しく見えるのか、ドラマチックに映るのか。

余命がある人は、目的から逆算して必要なことだけを選び取っているのではないでしょうか。

残り一年しかないから、家族と一緒にいる時間を増やしたい。
残り一年しかないから、自分が生きた世界の全てを知ってみたい。
残り一年しかないなら、自分が与え、与えられてきた幸せを噛み締めておきたい。

そのためには、病床で不貞腐れて寝ているわけにはいかない。
なので、たくさんの人に迷惑をかけてでも、それ以上の喜びを分かち合いたい。
だから、自分は残りの人生をこういうふうに使おう。

こういう思考ではないでしょうか。
これが、余命がある人が美しく見える論理だと思います。

そして、これを自分たちに置き換えることだってできると思います。
別に一年経ったら死ねって言ってるわけじゃないですよ。

例えば何かしらのアカウントを作って、一年後にはそのアカウントごと消すという制約を設けます。
そこからそのアカウントでやりたいことをリスト化して、一年という制約の中でできることだけを厳選します。
あとはそれをやるだけ、というものです。

誰かYouTubeでやってくれないですかね、毎日見に行きますけど。

企画タイトルは「◯◯して1年経ったら死ぬつもり」でどうでしょうか。
多分「死」というワードがGoogleのアルゴリズムに弾かれますけど、でも面白いと思います。
ちなみに、表舞台に出ることは僕のやりたいことじゃないのでやりません。

僕は僕でやりたいことをリスト化している最中なので、それが定まったら何かしら発信するかもしれないです。

まとめ

とりあえず夜の散歩は続けたいですね。
偶然にもこういう経緯で壮大な話になりましたが、まだまだ喋ってみたい夜の散歩珍事件はたくさんありますので。
それをシリーズ化するのも面白そうですし、もう少し遠く知らない土地まで羽を伸ばすのも楽しそうです。
長々となりましたが、要するに僕が伝えたいことはこれですね。
「チンタラ生きたら骨溶ける」です。
いろんなエゴで生まれることになったこの人生ですが、そんなエゴまで含めて人生の美しさなんて言えるようになれたら素敵ですね。
さすがにそれはまだ言えないですけど。

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