見出し画像

分かりあえない者同士生きていく

結婚する、しない。子どもがいる、いない。それだけで女どうし、なぜ分かりあえなくなるんだろう。

という帯の言葉に共感と疑問をほぼ同時に抱いてこの本を手にとった。

これは、わたしがまだ20代で、周りのほとんどが独身であるから浮かんだ感想かもしれないけれど、今のわたしが感じたことを書いてみる。

今でも学生時代の友だちと会えば、学生時代に戻ったような時間を過ごせる。とはいえ、あの頃と比べて多少なりともどこか距離ができるものなんだなと感じていた。それはよく言えば成長で、わたしたち自身でも、「大人になったね〜」なんて言う、ハッキリと正体はわからないけど、みんなが共通してもってるあの感覚のことかもしれない。だから帯の言葉に共感した。共感、というよりは、容易に想像ができた。

と同時に、今のわたしがそう思うなら、結婚も子どもも関係ないのではないか、言葉にすると寂しい感じがするが、もともとわたしたちは分かりあえてなどいないのかもしれないと疑問に思った。

たしかに結婚や子育てによって生活環境や属するコミュニティも変わるし、優先順位も変わって、かつての友だちとすれ違いが生まれることはよくあることだろう。結婚している者同士、いない者同士、子どもがいる者同士、いない者同士のほうが共通の話題が増えるものだろう。



高校3年生の時、高校最後の夏を楽しむ子もいれば、受験勉強に集中する子もいた。推薦ですぐに大学が決まった子もいれば、卒業式ギリギリまで入試を受けてる子もいた。そんな風にお互い近寄りがたくなってしまった時のことを思い出した。


本当に大事な相手なら、それぞれの環境で、それぞれの想いを抱えながらでも、そばにいる事も離れて見守ることも、選ぶことができるし、似たような状況にいて、互いに励まし合った仲間でも何かをきっかけに疎遠になるならそこまでの関係だったのだ。



同じ制服を着て、同じ学校に通い、放課後の教室で毎日のように語り合っていれば、相手のことを丸ごとわかったような気になってしまう。だから卒業して、いっしょに過ごす時間が減れば相手のことが分からない、分かりあえなくなってしまったという気もしてしまうのだ。



生まれてからこれまで、わたしは何人の人と出会ったか。学生の頃わたしたちは「ずっと友だちでいようね」なんて簡単に口にしていた。でも実際に今でも友だちといえるのはほんの数人だ。

そしてその友だちとも、学生の頃のように同じ明日を当たり前に思い浮かべることはもうない。どれだけ仲が良くても、わたしがそうであるように、彼女たちも様々な経験をして、考え方も想像する未来も変わっているだろう。ずっと大事にしようと思っているけれど、なにかをきっかけに心が離れてしまう可能性もなくはない。それでもわたしたちはどうしてか、きっとずっと友だちでいられると、願いに近い確信をもっている。

他人とわかりあえない虚しさを知りながらわたしたちは出会いを求めてしまう。誰かといることを選んでしまう。

相手の全てを理解したつもりだとしても、自分と相手が同一化することはない。他人と出会い、分かりあえない部分に自分を見つける。
それでも相手のことを分かりたい、自分のことを分かってほしいと願い、期待し、勝手に裏切られたような気持ちになる。それはきっとお互いにそうだ。親密だった誰かと別れて、心に空いた穴によって自分の形が作られていくとも思える。

だからみんな出会いと別れを繰り返しながら歳を重ねていく。

人はひとりでは生きていけないけれど、みんな孤独を抱えている。

同じ気持ちを共有しようとして、どれだけ陰口をいっても、いじめの標的をみつけても、孤独な部分は埋まらない。それなら、自分もみんなも孤独なんだ、孤独を持つ者同士で生きているのだと、認めたほうが楽だ。

本当に大事な相手なら、より一層、完全には分かりあえないということまでひっくるめて受け入れて生きていかねばならない。そうしていつも向こう岸にいる彼女と交わる橋をかけよう。

だからやっぱり、結婚してるかどうか、子どもがいるかどうか、女だからとかそんなことは関係なく、そもそもわたしたちは分かりあえない。それをこの本を読んで改めて強く認識させられた。
それでもわたしたちは分かりあえない者同士生きていくしかないのだとも。

今年一冊目。今のわたしにぴったりな本を読めた。もし10年後のわたしがこの本とこの感想文を読んだら、どう思うのか楽しみ。

この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?