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第3章 景観における歴史的重層性(第3節)

第3節 文明開化の名残の景観

1)第2期の景観

 第2期は、江戸期の影響を色濃く残しながら、新時代の姿を模索した時期であり、脱亜入欧の風潮とともに、数多くの西洋建築、もしくは和洋折衷の建築物が建設された時期でもある。また、江戸自サイトは異なる機能を持った町なども形成されている。

2)景観上の特徴となる構造物の存在

 日本橋川周辺には、第2季の様子を伝える特徴的な構造物が数多く存在している。旧常盤橋は、前述の常盤橋門跡とともに日本橋川の景観上の特徴の一つである(写真29:再掲)。

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写真29 常盤橋公園と旧常盤橋(再掲)

 この橋は明治初期に東京市内各地に架けられた不燃化のための石造橋の一つである。1877(明治10)年に架けられた現存する唯一の石造アーチ橋である*15)。他の橋が東京市区改正計画の実施により架け替えられていくなかで、旧常盤橋だけが古橋保存ということから残された経緯を持っている。

 この旧常盤橋東側には、ルネサンス様式で花崗岩造りの日本銀行本店本館がある。辰野金吾博士設計のこの建物は、金座の跡地に1896(明治29)年に竣工した。貴重な明治期の洋風建築物として、国の指定建造物重要文化財に指定されている。日銀本館と旧常盤橋との組み合わせは、江戸期〜明治期の歴史の重層性を示している景観といえる。

 さらに、日銀のほど近くにある三越百貨店本店の建物は1904(明治37)年に建てられた、塔をいただく洋風建築である(写真33)。また、現存していないが、白木屋呉服店*16)は、和洋折衷様式の塔を持ち、呉服店として初のエレベーターを設置した建物であった*17)。

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写真33 三越本店

 そして、前節でも触れた日本橋は、1911(明治44)年に架けかえられ、現在の姿になった(写真35:再掲)。この端は、ルネサンス様式といわれる花崗岩の二連アーチ橋である。袖柱は擬宝珠を型取り、親柱には東京市のマークを把持している唐獅子、中央には麒麟が飾られている。この唐獅子と麒麟は、東京美術学校(現東京藝術大学)に委嘱して作られたブロンズ像である。

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写真35 西河岸橋からみた日本橋川(再掲)

 また、日本橋北詰西側にある東京市道路元標(写真40)は、1873(明治6)年に国内諸街道の元標として定められたときの記念碑で、1969(昭和44)年に都電が廃止されるまで、橋の中央にあった*18)。

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写真40 道路元標(日本橋北詰)

 日本橋の竣工時には、開橋を記念して『日本橋紀念誌』が出版された。これは地元有志によるものであった。また、1991年には架橋80周年を記念した催し物が開催された。この式典も名橋「日本橋」保存会によって主催されたものであった。保存会は橋南詰にある日本橋由来の碑(写真38)も管理しており、こうした民間の手で日本橋は守られている。

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写真38 記念碑(日本橋南詰)

3)新時代を反映した町

 日本橋川周辺では、江戸時代には見られなかった機能を有した町が形成され、現代まで残っている。これらは兜町周辺の金融街であり、一ツ橋・神田周辺の学生街・出版印刷関係の街である。

 数多くの証券会社が立地する兜町周辺は、明治初期に情報・経済の中心地を形成しようと計画された「兜町ビジネス街」の名残である(図3-1)。この町の景観城の特徴は、東京証券取引所である(写真43)。この証券取引所は1878(明治11)年に東京株式取引所として開業したものである。また、「銀行発祥の地」碑もこの地域の中にある。これは第一国立銀行(第一勧業銀行の前身、1873(明治6)年設立)がこの地に創設されたことを示すものである。

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図3-1 景観上の歴史的特徴(再掲)

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写真43 鎧橋南詰と東京証券取引所

 そして、兜町と隣り合わせの地にある日本橋郵便局には、「郵便発祥の地」碑がある(写真41)。この碑は1871(明治4)年に近代的な郵便制度としての駅逓司(えきていのつかさ、現在の郵政省→日本郵政株式会社)がこの地に置かれたことを記念したものである。さらに、日本橋川を下流にある豊海橋近くには、「日本銀行発祥の地」碑がある(写真53)。これは1882(明治15)年に、日本銀行が北新堀町に開業したことを記念するものである。その後、1896(明治29)年に日銀は金座の跡地へと移転してしまう。しかし、日銀もこのビジネス街の一郭を担っていたと思われる。

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写真41 日本橋郵便局にある「郵便発祥の地」碑

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写真53 豊海橋北詰近くにある「日本銀行発祥の地」碑

 「兜町ビジネス街」は渋沢栄一により計画され、水運の便のよいこの地域に経済機能を集中させようとした。しかし、水運から陸運への交通形態の変化や、国際港建設計画の頓挫などにより、実現できなかった。ビジネス街は丸の内に奪われたものの、証券取引所を中心に金融の街として現在に至っている。

 一ツ橋から神田にかけての学生街は、前述のように江戸期の火除明地に寛永つの学校が作られたことに始まる(図3-2)。一ツ橋北詰にある如水会館・一橋講堂、学士会館(写真17・18)は、かつてこの地に高等商業学校(現一橋大学)、東京帝国大学(現東京大学)があったことを示している。こうした官立の大学にあわせるように、私立大学も隣接した錦町・小川町一帯に集まってきた。この小川町一帯を発祥地とする大学は、明治・専修・法政・中央・日本・国学院・東京理科・獨協・共立・東京歯科などの各大学である。

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図3-2 学校(大学・高等学校)の分布(筆者作成)

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写真17 一橋講堂(右手は如水会館)

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写真18 如水会館(左)と学士会館(右奥)

 大学が集中的に立地したのは、当時教員の数が少なかったため、各大学を掛け持ちで回る教員が少なくなかったこと、夜学の教員として官僚も勤務していたこと、官僚の勤務地から遠くなかったことなどである。日本橋川を挟んだ南側(右岸)は官庁街であった。

 神田地区に大学が集中するとともに、学生を対象とした町が形成された。古本屋をはじめとして、新刊本屋が加わり、神保町周辺は現在見られるような書店街へと発展した。また、ここに集まってくる学生を対象とした娯楽街も形成された。

 この地域のもう一つの性格としては、出版・印刷関係の業者が多く立地していることが挙げられる。これは、大手町一丁目一帯に大蔵省紙幣寮(大蔵省印刷局)*19)があった関係で、印刷・製本業者が進出してきたことによる。そして、神田周辺の低廉な労働力が確保できたこと。日本橋川の水運が利用できたことなどの理由が挙げられる。さらに、神保町周辺の本屋の出版活動と結びついてこと。読み手(学生・教員)が近くにいたことなどの相乗効果により、出版関連機能が集中したといえる。

4)倉庫群の成立

 江戸時代の問屋の蔵からはじまった日本橋川下流部の倉庫群は、1993年の今日では再開発がなされ、その姿を大きく変えようとしている。日本橋川下流部にある三菱・三井・澁澤などの倉庫会社は、いずれも明治期に成立している。こうした倉庫が川沿いに立地してことは、水運が物流において重要な役割を果たしていたことを証明している。

注および参考文献

*15)伊藤孝(1986)と:『東京の橋ー水辺の都市景観』鹿島出版会,265p.
*16)現東急百貨店日本橋店(→コレド日本橋)。前掲*10)参照
*17)陣内秀信(1985):『東京の空間人類学』筑摩書房,306p.
*18)前掲11)12)参照。現在はこの代わりに、円盤型の道路元標が橋の中央に埋め込んである。
*19)この跡地は、官庁街の一部となっている。

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