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第3章 景観における歴史的重層性(第1節・2節)

第1節 景観と歴史の重層性

 日本橋川周辺を歩くと、さまざまな景観が見られる。こうした景観には、その地域を代表するような景観上の特徴が存在している。このような景観上の特徴は、どのようにして形成されてきたのか。こうした特徴は、これまでの歴史の積み重ね、つまり歴史の重層性により形成されてきたものであり、それは現在という時間の一断面の姿であると考える。

 本章では、これに従い景観上の特徴を歴史的側面から捉えることで、日本橋川とその周辺地域との「結びつき」を明らかにしていく。

第2節 江戸の町形成期の残象

1)残象の性質

 本研究対象地域において、江戸時代の頃の事象が景観上の特徴となって直接的に残っていることは少ない。けれども、江戸時代の事象は形を変え、地名や町並みとなって景観上にあらわれてくることがある。本節では、江戸時代の直接的な姿を残している事象や、姿を変えても本質を変えずにいる事象をとらえていく(図3−1)

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図3−1 景観上の歴史的特徴(筆者作成)

2)直接的な事象(その1・外濠)

 江戸期のもので、現在にその姿を伝える景観上の特徴は、日本橋川が江戸城の外濠であったことを示す門跡や石垣の跡である。江戸城の防御線である外濠の一部分であった日本橋川には、いくつもの城門があった。

 これらの城門の一つである常盤橋門跡は、建造物が失われているものの、枡形門の石垣が残され当時の姿を偲ばせている(写真29;現在は常盤橋公園になっている)。この門は、江戸五口の一つであり、その名の通り常磐方面への奥州街道の起点となっていた。また、江戸城内外を分ける重要な門であった(奥州街道の起点はその後日本橋へ変更されている)。

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写真29 常盤橋公園と旧常盤橋

 また、常盤橋門跡ほど完全なものではないが、かろうじて残っている一ツ橋門跡の石垣(写真20)や、一ツ橋〜雉子橋間に残っている石垣(写真16)なども、外濠としての日本橋川を示すものである。

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写真20 一ツ橋南詰(右手に一ツ橋門の石垣跡が見られる)

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写真16 雉子橋〜一ツ橋間の旧江戸城の石垣

3)直接的な事象(その2・繁華街の存在)

 一石橋の南詰西側にある「一石橋迷い子知らせ石標(都旧跡)」*10)(写真32)は、往時の賑わいを示すものである。こうした石標はほかにも浅草寺境内や湯島天神など賑やかなところに設けられていたものである。

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写真32 一石橋迷い子知らせ石標(一石橋南詰西側:金網内の石標)

4)間接的に見られる事象(日本橋と周辺地域)

 間接的に江戸時代の事象をとらえるものは、日本橋があげられる。日本橋は1603(慶長8)年に初めて架けられたとされている。そして、この端は江戸時代の五街道*11)の起点として定められ、現在でも7本の一級国道*12)の起点とされている。日本橋の橋詰には、それぞれに河岸があり(図2-8)、江戸市街でも有数の賑わいを見せていた(河岸は現存せず、日本橋北詰東側にある「魚河岸発祥の地碑」が以前の姿を伝えている(写真39))。

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図2-8(再掲)

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写真39 日本橋北詰「乙女の広場」魚河岸発祥の地碑

 五街道の起点であり、また江戸の町を代表する橋であった日本橋には多くの人が集まり、商業活動も盛んであった。これは、老舗と言われる百貨店が3軒もこの地にあることからわかる*13)

 日本橋の繁華街にほど近い日本橋本石町には、金座(幕府の金貨鋳造所、現日本銀行本店)*14)があり、日本橋周辺地域の商業的中心機能を高めていた。また、日本橋から下流では、倉庫や酒問屋などが多く見られる。これらは、江戸時代からの問屋の蔵から発生したものであり、水運により物資が運ばれいたころの名残である。

5)間接的に見られる事象(一ツ橋周辺)

 こうした商業機能とは別に、一ツ橋には文化機能の集中する契機となった洋学所が幕末に設けられていた。一ツ橋周辺の日本橋川左岸一帯は、火除明地(ひよけあけち)と呼ばれる防火地帯であった。明治維新後、この広大な跡地を利用し、この一帯に官立学校が設置されたのである。

註および参考文献

*10)石標の裏側には、安政4(1857)年西河岸町の銘あり。一石橋付近は、近世後期に盛り場となっていたので、迷い子も多かったようである。迷子があると、その町内で責任を持って保護することになっていたので、町の有力者が世話人となって建立した石碑である(北原進・山本純美(1979):『中央区の歴史』名著出版より)。
*11)東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道のことであり、日本橋を起点にこれらの街道に一里塚が置かれた。
*12)1号(東海道)、4号(奥州街道)、6号(水戸街道)、14号(京葉道路)、15号(第一京浜)、17号(中山道)、20号(甲州街道)のことである。
*13)白木屋(東急百貨店日本橋店→コレド日本橋)は1622(寛文2)年の創業。三井越後屋(現三越)は1683(天和3)年の創業。高島屋は1831(天保2)に京都で創業、現在の建物は1932(昭和8)年のもの。
*14)成立は1595(文禄4)年とも1601(慶長6)年とも言われている。後藤庄三郎光次が金改役に任命され、本町一丁目(日銀のある場所)を拝領し、金貨鋳造をはじめたことによる。1869(明治2)年に廃止されるまで金貨の鋳造をおこなっていた。勘定奉行の支配下にあり、小判などの鋳造・鑑定・引替、地金類の買収・監査などをおこなっていた。




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