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過去の「~たら、~れば」と未来の「~たら、~れば」


もし~だったら、
もし~していれば、
○○だったかもれないのに・・・

もし、もっと頭が良ければ、
人生かわっていたのに。

あのとき、もう少しがんばってれば、
上手くなってたはずなのに・・・。

・・・

「~だったら」とか、「~していれば」とか、そんなこと言ってもしかたがない。

と分かっていても、ついしてしまうのが「たられば」話。

どうして、「~たら」とか「~れば」の事実でない話をしたがるのでしょうか。あるいは、心の中で想像してしまうのだろうか。

今の自分に「不満」がある?
過去の経験が今の自分に何かしらの悪影響を与え、「後悔」しているから、とかでしょうか?

何かとマイナス的なイメージがありますが、
捉え方によってはプラスになることもあるのです。


どんな「たられば話」をしても満足できる保証はない



あなたがもし、

「金持ちの家に生まれていたら、今ごろもっと豊かな人生になっていた。」

って思ったとします。

ホントにその理想通りになっていたとしたら、今現在、豊かな人生になっているという保証はあるだろうか?

「~たら」「~れば」の話はしていないと言いきれるでしょうか?

おそらく、結局は「~たら」「~れば」の話をしてるはずです。

なぜなら、根本的に「現状に満足できない思考」が根付いている限り、どれだけ理想が実現していたとしても、「~たら」「~れば」の話をしてしまうでしょう。

今の自分に満足できるだけの能力がないから、
いえ、現状を満足できるその「術(すべ)」をしていないからとも言えます。

たとえば、真夏の暑い時期になると、涼しくなりたいと思うし、真冬の寒い時期になると、暖かくなりたいと思う。

だけど、真夏の暑いときでも快適に過ごせるのは、
冷房をつけたり、冷たいモノを飲んだりとか、暑いという現状に満足するための「術(すべ)」をしっている。

真冬の寒い時も同じで、暖房をつけたり、厚着したりとか、寒いという現状をどうにかして満足するための「術(すべ)」をしっている。

となると、現状に満足するためには、

今に満足できる「術(すべ)」をしっているかどうか

ということになります。

しかし、しかしですよ。

「もし、もっと頭が良ければ」って思ってしまうのは、過去の自分が、頭のよくなる術を知っていなかったからだろうか?

そうではないですよね。

もっと、がんばって勉強しなかった自分に「後悔」してるんだよね。

真夏の暑い時期に、冷房をつけたら涼しくなる術(すべ)ことを知っていても、つけなかったら全然涼しくはなりません。満足できません。

そのせいで、熱中症に患うことになってしまうと、
きっと「後悔」するでしょう。


やらなかった後悔



つまり、現状に満足するための術(すべ)を知っていようと、
それを「やろう」とする自分がいない限りは、満足できないし、後悔することになります。

「もしあの時、節電のためとはいえ、ちゃんと冷房をつけていたら熱中症にならずにすんだかもしれない。」

「もしあの時、友達の宿題をうつしてばかりしてないで、ちゃんと自分で考え解いていれば、もっと頭がよくなっていたかもしれない」

「~たら」、「~れば」という理想の話は、

少なからず可能性があったことだと「後悔」するのです。

つまり、

「なんであの時」って思ってしまうのは、少なくとも
「できたかもしれない」ということであって、
「やらなかった後悔」をしているのです。


たとえば、芸能人の子供にうまれていたら、みないなほとんど可能性がゼロに近い「~たら、~れば」の話をしても、そんなに後悔したりしないはずです。

「できたかもしれない」という「~たら、~れば」の話をすると、
「やらなかった後悔」をしてしまう。

過ぎてしまった過去を後悔してもはじまりませんよね。

なので、

過去の「後悔」にばかりフォーカスする癖があり、
未来の「希望」にフォーカスしようとしていないのです。


未来の「~たら」「~かも」


考え方によっては、「~たら」「~れば」の話ってのは、


過去から現在までのことに「希望」とか「夢」を描こうとしている

ということですよね。

その「希望」や「夢」は自分にとっての本当にそうなりたいことで、今でも叶えたいと思っているなら、その過ぎ去ってしまった過去と、事実でしかない現在に希望と夢を描くことができるのなら、

その「~たら」「~れば」の話を、そのまま
「未来」にシフトすればいい。

過去の「~たら」「~れば」ができない理由で挑戦しなかったのなら、
未来の「~かも」という、できる理由に置きかえ、挑戦しようとすることに変えてみるのです。

もし、あの時○○をしていたら、△△も夢なかっただろうに。
 →
もし、今から○○をはじめたら、△△も夢じゃないかも

もし、あそこであきらめなければ、○○できただろうに。
 →
もし、ここであきらめずに続ければ、○○できるかも


過去の「~たら ~れば」は後悔
未来の「~たら ~かも」は希望

そして、


今現在の「~たら ~かも」は勇気です。

過去が、どうであったか

ではなくて、

未来に向けて、どう挑戦するか

そのために、

今、どうするか

ですね。


挑戦し続ける人生に後悔はない



どうして「~たら」「~れば」の後悔をしてしまうのかというと、
それは、「納得」してないからです。


やれるかもしれないのに、失敗したらどうしようとか、「できない理由」をつけて、挑戦しないしなかったらそれは、「後悔」になります。

ですが、やれるかもしれないと思い、挑戦し、仮に失敗しても、


「納得」はできるはずです。


「やりたい」と思っても、できない理由をつけて、挑戦しようとしなかったことは、いつまでも心に残ります。

なので、

仮に失敗しても、やれば必ず「納得」はする。
失敗したことの悔しくはあるが、「納得」はできる。
過去を振り返っても、挑戦した自信がついているはずです。


「できない後悔」よりも「やらなかった後悔」のほうがずっとずっと辛い未来が待っている。


つまり、今の現状を受け入れ、タラレバ話でごまかすことなく、今の自分に満足したいなら、「挑戦しようとする心構えに納得する」ことが明るい未来を創っていく。


たらればの原因は「対人関係」かも



人は、今現在、「もっと~していたら」とか、「もし~していれば」とか思ってしまうと、理想に到達できていない自分に対し、まるで劣っているかのような感覚を抱いてしまいます。

こう思ってしまうのは、他人と比較したり、人の目ばかりを気にしたり、人から嫌われるかもとか、

対人関係の中で傷つくことを恐れているから

ではないでしょうか。

「もし、お金持ちの家に生まれいれば~だったかもしれない」と思ってしまうのは、他の誰かと比較しているからじゃないですか?

「もっと頭がよかったら、~できたかもしれない」と思うのは、学生時分にクラスの中の友達(他人)と比較して自分の成績順位がよくなかったからではないだろうか。

他人と比較してしまうと、理想に到達できていない自分から逃れることはできません。

なぜなら、お金持ちがいい、頭が良ければいい、有名大学の学歴がすごい、とかは、あくまで「客観的な事実」であって、あなた自身が定義したことではないはずだ。

他人が勝手に決めたことに悩まされていては、永遠にどこまでも「~たっだら」「~していれば」といった、あなたの心の中でかってにこしらえた「コンプレックス」を持ってしまう。

今の自分が何者なのかを「自信を持って」受け入れ、「主観的な事実」に目を向けなくちゃいけない。

だが、状況は主観的な事実に基づいた、一歩でも前進しようとする努力でのみ、未来は変えられる、という事実を受け入れられないことが多い。

「どうせ自分なんて」「どうせがんばったところで」と、あきらめてしまうのは、客観的な事実による自分が「どうであるか」に満足しようとしているからです。

じゃなくて、他人と比較せず、人の目を気にせず、嫌われることに拒まず、自分だけの主観的な事実が「どうであるか」ではなく、「どうするか」を更新し、納得できるように、挑戦しなくてはいけないと思う。

自分がつい、タラレバ話をしてしまうのは、他人との比較による「劣等感」ではなく、自分自らがつくりあげた「コンプレックス」です。

あなた、他人を気にしてしまうかもしれないが、他人だけのコンプレックスは気にしないはず。気づきもしないはず。

ということは、あなたは誰かに比較されることはあるかもしれないけど、あなたのコンプレックスは、だれも気にしてはいない。

「自分のココを気にしているのは、自分だけ」「あなたのソレを気にしているのはあなただけ」

少し言い方がきつくなるかもしれませんが、過去から現在の事実にタラレバ話でごまかそうとしているのは、自意識過剰な反応をしているだけともいえます。

結局は、他人を気にしながら、自分自身でわざわざ苦しめているのではないだろうか。

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