小説『神様と君の隠し事』

 何も思い通りにいかない日々が続いている。憂鬱で目を灰色に曇らせた僕の存在など歯牙にも掛けないように、この蒼い星は一定のスピードで回り続け、季節は変わっていく。時の流れを恨めしく、そして恐ろしく思うようになったのはいつからだろう。このままでいてはいけないし、早くここから脱したいのだけれど、同時にずっとこのままで、誰からも審判を受けずに自由でいたい。一丁前のプライドと、子供じみた羞恥心から、僕は微睡みの中でモノクロに見える風景をなんとなく生きていた。



 朝、下駄箱の前で文乃あやのに会った。季節は秋に差しかかり、袖丈はその日の暑さによってまちまちで、風が少し乾いている。寝ぼけ眼の僕とは対照的に、彼女は朝から真っ直ぐに背筋を伸ばし活動的だ。彼女と談笑していた女友達が、用事があるのかどこかへ行った。彼女が僕に気づく。
「おはよう」
 爽やかな笑顔で彼女は僕にそう言って笑いかける。「おはよう」と挨拶を返して、僕はおもむろに靴を履き替えた。彼女の明るい挨拶に対して、自分の返答は無愛想ではなかっただろうか。そういうことをいちいち考え、精神をすり減らしてしまう自分が、どうしようもなく嫌いだ。
「草壁ってもう志望校決まってるの?」
 本当は耳にしたことがあるのに、僕はそう訊いていた。それくらいしか、この会話を続けるすべを僕は知らなかった。
「一応、ね」と彼女は言った。綻んだ表情と明るい口調からは、あまり迷いが感じられなかった。
 文乃はこの学校でもトップレベルの優等生だ。僕と彼女との間には歴然とした学力差が横たわっている。彼女は、日々の生活が苦しそうに見えない。まるで、息を切らしながら険しい山道を登る僕を横目に笑顔で軽々と山を乗り越えていくように、彼女は見える。
「ほんとに、草壁はすごいと思うし、羨ましいなと思う」
「え、ほんとに? ハハハ」
 君は笑っていた。
 時計の針はただ均質に時を刻む。
 少し幸せな朝が始まった。



 近所の書店で赤本を買った時、カバーを付けるか訊かれた。普段の僕は本の帯すら読むときに邪魔だと思うくらい神経質だが、このときは何故だかカバーを付けるようにお願いしていた。書店の名前とよくわからないポーズをした人間の絵が描かれた地味なカバーを、僕は赤本を持ち運ぶ際は常に装着していた。
 どうして自分がそうしているのか、僕はしばらくの間わからなかったし、その行為に疑問を持つことすらなかった。しかしある日の放課後、僕が開いていた赤本をクラスメイトに覗き込まれたときに咄嗟にそれを手で隠した瞬間、カバーが存在すべきである理由を悟った。それは安っぽい自尊感情と、くだらない恥じらいのためであった。自分はこの広く混沌とした世の中に比べればひどく矮小で、ひとたび風が吹けばすぐに飛ばされてしまう哀れな砂の粒のようなものだ。だが僕にとっては、自分の精神世界こそが全宇宙だった。自分という存在が他人の目にどう映っているか、そればかりを考えて、そればかりに苛まれて生きていた。
 地下鉄に揺られながら、放課後の教室に残りながら、僕は面白味のないカバーで覆われた赤本をめくった。憂鬱なときに眺めていた、冒頭の方に載っているはしがきや大学情報といったページの文言は覚えようと意識せずとも自然に暗記した。各教科の配点、試験時間、出題の傾向と対策。胸に渦巻く、大声で叫びたくなる衝動を抑え込むように、僕は文字をひたすら目で追いかけた。それでも言いようのない焦燥は消えない。



 街からは、嫌でも冬の足音が聞こえてくる。放課後、教室に残ってもいい時間まで残って勉強しているのは僕と文乃だけだった。いつも最後は二人きりになるので、降りる駅が同じということもあり僕らはいつしか一緒に帰るようになった。この学校には、彼女を凌ぐ学力を有する生徒はそうそういない。彼女は雲の上の存在だった。
「お待たせ」
 首元に赤いチェックの柄のマフラーを巻いた彼女がやって来た。「帰ろっか」と僕は言った。
「ねぇ、ちょっと時間ある?」
 不意に彼女が、微笑みを浮かべながら僕に訊く。
「あるよ。どうしたの?」
「この近くに神社があるの。そこに合格祈願に行かない?」
 彼女は妙に楽しそうだった。僕はそもそも神社の存在さえ知らなかったが、即座に了承した。
 それから僕らは目的地の神社まで、様々な話をしながら歩いた。彼女は最近行った美味しいレストランの話をし、僕は飼っている猫の話をした。以前からしたら、随分と会話が弾むようになった。二人で話していると疲れを忘れ、見慣れた街の風景もどこか綺麗に色づいているように見える。
「ここが、その神社」
 それは、東京の夜の片隅に、誰にも気づかれないようにひっそりと佇む小さな神社だった。彼女が指差す鳥居は、暗がりの中に悠然とそびえ立っていた。冬の長い夜の始まりの空気が辺りを包み、冷たい風が僕らの頬を撫でる。二人で鳥居をくぐった。そこには神聖で厳かな空間が広がっていた。時間の流れが、この鳥居を境にして変わったかのように思える。僕は、見慣れたはずの街にこんな場所があったのかと驚いた。
「二人とも合格できるように、お願いしよ」
 彼女がそう言って、不意に僕の手を取り、拝殿に向かって軽く走った。僕は慌てて彼女の手に引かれながら走る。玉砂利を踏む音が心地良く鳴り、涼しげな風が二人の髪を揺らした。神秘的な空間は、僕らの存在を世界中のどこからも見えなくする。
 拝殿は、立派なものだった。どうして自分は今までこの神社のことを知りもしなかったのかと、ひどく疑問に思う。僕は財布からお賽銭として投げる小銭を探した。
 そして僕らは小銭を財布から取り出し、賽銭箱に投げ入れた。二礼、二拍手。それから僕は、一心に祈った。合格と彼女の幸せを、心の底から願っていた。いつから僕は、誰かの幸せをこんなにも強く願うようになったのだろう。僕はそんな人間だっただろうか。これはきっと、他の誰でもいけない。彼女でなければ、こんなにも激しく心を揺さぶられることはないだろう。君じゃなければ——
「わっ!」
「えっ?」
「ハハハ、びっくりした? ずぅっっっと手合わせてるから面白くって」
 彼女は無邪気な笑顔をたたえて、楽しそうに笑っていた。それを見て僕も笑ってしまう。夜の東京にひっそりと佇む神社の境内に、少しばかり現実を忘れた僕らの笑い声が、実に愉快に響き渡った。
「あのさ、草か……」
「文乃」
「えっ?」
 その目は真っ直ぐに僕を見ていた。
「文乃って呼んで」
 遠くで列車の音が聞こえる。
「あ……わかった。文乃。……」
「ハハハ。なんで照れてんの。おかし〜」
 嬉しいような、恥ずかしいような、もどかしいような、苦しいような。君にしか感じない特別な感情は、夏や秋より強くなっている。昼間は重くのしかかり、押し潰されそうな閉塞感を感じさせていた空は、今では僕らを見守るように無数の星の光を地上に届けている。
 何の責任感もなく、君が好きだと言えたら、どれほど楽だろう。高まる思いのままに、君を抱きしめられたら、どれほど幸せだろう。
 僕は君の幸せを願った。
「随分暗くなったな」
「そうだねぇ」
 僕らが神社にいる時間は永遠のように感じられた。この空間だけは、あの鳥居から奥に入った空間だけは、特別な時間が流れているように思えてならなかった。鳥居から外に抜ければ、そこはもう眠らない街だ。喧騒にまみれ、誰もが忙しなく、常に何かを課され、抑圧されている。
 ふと僕は、ずっとこのままでいたい、と思った。自分を縛りつけ憂鬱にさせるものが何ひとつ存在しないこの場所に、ずっととどまっていられたらどれだけ楽だろう。
「ここにずっといたいって思うことは、わがままかな?」
 東京とは思えない静寂に投げかけるように、僕は言葉をこぼした。
「わがままじゃないよ。ここにずっといたいなら、そうすることができるよ」
 彼女は、不自然なほど落ち着いた笑顔を浮かべてそう言った。
「そうなの?」
「うん。私たち、今すごいことやってるんだよ」
「すごいこと?」
 列車の音がどんどん遠くなる。
「神隠しって知ってる?」
「神隠し?」
 あまりに唐突に不思議な言葉を発した彼女の唇は、夜の闇の中で怪しげに光って見えた。
「ああ、人が突然いなくなることだっけ。でもそれがどうしたの?」
「今の私たちは、客観的に見たら神隠しに遭ってるんだよ。この神社は、他の誰にも探し当てることができない特別な場所で、ここにいる限り、私たちを見つけ出すことは誰にもできない」
 彼女は嬉しそうに、この世界の秘密を僕に話していた。
「えっと……それはどういうこと? ここは君にしか見えない神社なの? じゃあどうして僕には見えてるんだ?」
 彼女が楽しげに笑う。
「私が、君のことを好きだから。私と私の好きな人にだけ、この場所は見えるの」
 君は僕が好き。
「そうなんだ……」
 僕も君が好き。
 何も見えない深い闇の中で、ようやく光を見つけ出したような気持ちだった。外の世界の音は何も聞こえない。この世界にあるのは、僕たち二人の重なり合った想いだけだった。
わたるくん、生きるのがしんどいなって思うことない?」
 彼女は僕にそう訊いた。彼女からそんなことを訊かれるとは思いもしなかったため僕が答えに窮していると、それを待たずに彼女が語り始めた。
「私はそういう気分になることがあるんだ。今すぐにでも消えてしまいたいって思うほどに苦しくなることが。そんなときは、決まってここに来る。親も、教師も、友達も、誰ひとりとして私の本当の気持ちをわかってくれない。だから、誰にも邪魔されずに済むこの場所に来て、大声で叫んだりただボーッとしたりしてどうしようもなく苦しい気持ちを有耶無耶にする。神様の大切な場所を、そうやって自分のためだけに使うのはよくないことだから、私は何かの罰を受けるかも知れない。もしかしたら、ここに来るたびに寿命が縮んでいるのかも知れない。でも、そうだとしても、私はここに来ることをやめられなかった。押し潰されそうなほど苦しかった夜を乗り越えるためには、どうしてもここが必要だった」
 僕は文乃の話に耳を傾け続けていた。僕がここに存在できているのは、彼女が僕を愛してくれているからだ。だが、僕は彼女がこんなにも苦しい気持ちを抱えていたことを全く知らなかった。彼女のことは非の打ちどころのない優等生としか思っていなかった。
「私が君のことを気になり始めたのは、君が書いた文章が私の感じていた気持ちと驚くほど重なったから。渉くんが赤本に挟んでいた一枚の紙がふとした拍子に床に落ちて、それを私は拾ったの。そのとき、そこに書かれていた言葉を読んでしまって、それが私の心に強く残った」
 彼女が言っている紙に書かれた文章というものが何を指しているかはすぐにわかった。それは憂鬱な気分だった僕が勉強の合間に書き記した短い文章だった。僕はその紙切れを赤本に挟んで持ち歩いていた。彼女は紙を拾った後、それをしっかり返してくれたが、その前にそこに書かれた文言を読んだのだろう。それはこんな文章だった。

 何も思い通りにいかない日々が続いている。憂鬱で目を灰色に曇らせた僕の存在など歯牙にも掛けないように、この蒼い星は一定のスピードで回り続け、季節は変わっていく。時の流れを恨めしく、そして恐ろしく思うようになったのはいつからだろう。このままでいてはいけないし、早くここから脱したいのだけれど、同時にずっとこのままで、誰からも審判を受けずに自由でいたい。一丁前のプライドと、子供じみた羞恥心から、僕は微睡みの中でモノクロに見える風景をなんとなく生きていた。

「まさに私が抱えていた気持ちを代弁してくれたみたいに思えて、私は一気に君に惹かれたの。君は常に疲れていて、絶えず焦燥に駆られているように見えた。君とは波長が合うんじゃないかって思えた。だから今日は、思い切ってこの秘密の神社に誘ってみたの。そしたらこの神社を楽しんでくれて、『ここにずっといたい』なんてことまで言ってくれて……。私すごく嬉しかったよ」
 誰にも探し出せない世界で、彼女の笑顔が弾けた。それを見て僕もつられるように笑顔になる。
 それと同時に、僕は決心した。
「文乃。これからは、僕が君にとっての神社になるよ。心に安らぎが訪れる場所を、僕が作るよ。一緒に気が休まる時を過ごそう。大声で叫んだりボーッとしたりしよう。僕の前では、弱い姿を見せていいよ。これからは、もう寿命が削られる心配なんて要らないよ。わざわざ神隠しなんかされなくたっていい」
 文乃の目を見て僕は強く語りかけ続けた。次第に彼女の目が潤んでくるのがわかった。彼女をそっと抱き寄せる。彼女の悲しみや苦しみを少しでも軽くしてあげたくて、僕は自分の服に彼女の涙を吸わせ続けた。
 世界には、あなたを必要とする人がいる。あなたがいなくなれば悲しむ人がいる。どんな人にだって、必ずだ。だから、ずっとこのままではいられない。このまま不思議な世界で遊び続けていることは許されない。僕らは生きていかなければならない。
 抱擁を終えた。
「ありがとう」
「こちらこそ」
 彼女が楽しそうに笑う。それだけでよかった。
 夜が深くなっていく。
「そろそろ駅に行こうか」
「うん」
 僕らは鳥居へと歩き出した。秘密の場所を後にする彼女の表情はどこか晴れやかだ。僕は心の中で、神様に礼を言った。
 神社の鳥居を抜けると、そこにあるのはいつもの見慣れた東京の街並みだった。そして僕らは、実に自然に、まるで互いを求め合うように手を繋いで歩いた。
 夜空に煌めく星の数ほどの人々が交錯する街では、各々が自分の抱える問題をどうにかすることで忙しく、誰一人として僕らのことに気づきはしない。夜の東京の往来に行き交う人たち一人ひとりに、たった一度きりの人生がある。希望に満ち溢れた人がいて、絶望に打ちひしがれる人がいる。僕と君だってそうだ。自責の念に苛まれながら惰性で生きる僕にもささやかな希望があるし、順風満帆に見える君にも僕の知らない絶望がある。この世界の中で君と僕が出会い、その人生の波が重なって互いに共鳴し合ったことは、気の遠くなるような確率の上に成り立った奇跡だろう。
 僕は君の手を確かに握っていた。先の見えない茫漠ぼうばくとした未来を前にした僕には、確かなものが何もない。これから先の未来を保証してくれるものが何もない。だが、君のことが好きだという気持ちだけは確かに存在していて、それは熱を持って僕の身体を激しく揺さぶっていた。苦しみにまみれ、暗い雲が垂れ込めた世界で、君にだけ抱く感情がある。どうしようもなく愚かで、臆病な自分が、誰よりも強く願うことがある。
「文乃」
「なに?」
「僕らのことなんて、誰も気に留めてくれなきゃいいのにね」
 何それ〜と言って、彼女は笑っている。僕はどうしたって器用になれない。不恰好で見苦しくても、もがくしかない。明日からは、赤本のカバーを外そう。毎日もっと笑顔でいよう。
 地下鉄の駅の入口が見えてきた。夜空は今この瞬間も、確実に一秒一秒ゆっくりと明日の青空へと移り変わっている。金色の輝きを放つ月を睨みつけて、僕は未来への確かな一歩を大地に刻み込んだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?