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『サマーフィルムにのって』

※映画『サマーフィルムにのって』のネタバレを含みます。



 すべてのものに等しく終わりは訪れ、夏をあと100回過ごすのはおそらく無理なのであろう、そんな有限性を思い知らされている25度目の夏、映画『サマーフィルムにのって』を観た。本作は青春や恋愛という普遍的なテーマを表象しつつも、時代劇とSFという、2つの時空を超える装置が盛り込まれている。

 2021年の夏が1度しか訪れないように、すべての人間に時間は等しく与えられている。主人公・ハダシが愛する時代劇の世界や、凛太郎がやってきた未来の世界はその人たちしか生きられない・生きられなかった世界だ。ハダシは時代劇を愛し自ら作り出そうとすることで、私たち観客も『サマーフィルムにのって』の世界に飛び込むことでタイムトラベルという夢に魅せられ、そして青春という戻らない時間を再び享受する。

 残すという行為の意味は何だろう。スマートフォンの普及によって、写真に収めるという行為自体は容易になった。しかしその本質はどうか。仮にInstagramに載せるために写真を撮っているのだとしたら。その目的がいいねの数にあったとしたら。それは未来に残すものというより、今この場で消費される行為だろう。じっさい、Instagramのストーリーは24時間で消えてしまうのである。時代は明らかに刹那主義へとシフトしていて、だからこそこの映画で示唆される「未来における映画の消滅」はリアリティをもって私たちの心を刺してくる。Googleフォトから容量オーバーしているとの通知が送られてきた。クラウド保存できる思い出の数にすら、限界があるのだという。

 この映画の素晴らしかったところは「残す」行為そのものである映画製作を映しながらも、青春という一時的な祝祭をあくまで祝祭としつつ、郷愁に浸るのではなく未来へ向かおうとする点にあると思う。だからこそ、時代劇と対極にあるモチーフである「タイムトラベル」が活きてくる。「どうか、振り返った時に愛することができる時間でありますよう」すべてを断ち切りながら凛太郎へ、そして物語の終結へ向かうラストシーンは、観る者を一歩前へと向かわせる力を持っていた。ハダシたちが撮った「サマーフィルムにのって」進むのは、他でもない私たち観客なのかもしれない。

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