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『リバー、流れないでよ』

 大学生のころ、鞍馬山越えデートをしたことがあった。鞍馬山はあの牛若丸——源義経少年が天狗との交わりにより武道の腕を磨いたとされる山で、叡山電鉄の駅を降りるとどデカい天狗にお迎えされる。そこからものすごく長い階段があり、それを上りきると鞍馬寺に辿り着く。京都市内を一望し、満足した人々は再び階段を降り、叡山電鉄に乗ってカップルたちは出町柳でよろしくやるのであるが、どうも鞍馬山は超えることができるらしいということを知っていたわたしたちは、チョチョイと鞍馬寺を脇に逸れて、獣道よりは整備されているようなその道を歩み、ほんとうの意味での「鞍馬山」に入っていった。

 その道中のことはあまり覚えていない、それは想像の10倍は登山で、2人とも明らかに体力を奪われつつ、日は沈んでいくいっぽうだった。彼女とはその後に付き合ってかなり早い段階で別れたのだが、少なくともそのときわたしは、こんな茶番に付き合ってくれるなんてユーモラスな人間である、この子とはやっていける気がすると思ったのであるが、たぶん彼女はそのときわたしのことが好きで、これはわたしも知っている景色であるが好きな人とならクソ登山だってミイラ展だってかまわないのである(※出典『花束みたいな恋をした』)。「唐突な登山を面白がれるような子」を求めていたわたしだが、その間には恋愛感情のフィルターが介在していたことに気がつかない。わたしは付き合ってからも唐突な登山的なサムシングを彼女に課してしまい悲しい思いをさせてしまっていた。これだからわたしは!これだから恋愛は!恋愛はバグだ。好きなひとから登山を誘われてもボケカス、と言えるような世の中になったらいいがロマンスがなくなってしまわないか。しかしわたしはとても、脳みそのバグにロマンチシズムを感じることができないのである。

 と、4年経った今だからこういうことを言っているのであって、すっかり日が暮れたのちに山を下り切ったときわたしたちはガッツポーズするお互いの写真を撮った。そして、その眼前に鎮座していたのが貴船の旅館たちだった。妖しく光る(ように見えた)それらは異世界に見え、『千と千尋の神隠し』すら想起させた。そこがまさに、この映画『リバー、流れないでよ』の舞台であった「旅館ふじや」の目の前だったのである。時は4年経ち、わたしは京都から東京に居を移したが時は引き戻されていく。時間映画。まさしくヨーロッパ企画の得意技に、わたしは再び没入していった。

 須く未来に対する希望についての映画だった。突如、貴船のある旅館一帯が2分間でタイムループし続ける環境になってしまう。2分経つと彼らは「初期位置」に戻り体力は回復、破壊したものどもも元に戻っていく。ただし彼らの「意思だけは」ループせず残っているというのがおもしろい。物語前半は2分間でループしてしまうというその環境のおもしろさを活かして遊びまくる一方で、後半は「いつまでもここにいたい」という皆の思いと「いつまでもここにいられないこと」という人生の無常観、そして未来への希望がまるごと描かれていてわたしの感情はグラングランに揺らされていた。「月にいる彼氏と遠距離恋愛」というそのフレーズだけで救われるミコトがいただろう、未来は希望になり得るのだということを信じた演出、わたしは「ここしかない今を噛みしめつつも未来に希望を見出し光が降り注ぐ」みたいな描写にめっぽう弱いため涙がダバダバと出た。

 「なかったことになる時間だから」と作家先生は身投げし、猟師は自らに発砲、ミコトは髪を切る。何度でも時を戻せるなら、一度くらいは…と、そういう破壊的な衝動が人間の中には眠っていることを描写したり、皆それぞれに「時が流れないでほしい…」という悔恨の念を抱いていること、まさしく皆一様に「リバー、流れないでよ」と思ってしまっていたという、そんな今は今しか生きられない、という生への執着があるということを描き、時間に対する人間の無力さをこれでもかと描く。

 そんな彼らの意思などなんの関係もなく、実際は超常的なタイムスリップ上のバグが発生していたという。止まってほしいと願った時間を動かすにはどうしても希望が必要、だからこそ「未来はどう?」と問う。そしてタイムパトロールの彼女はあくせくと未来を生きていることを知り、希望を込めて漁師が銃弾をぶっ放す!痛快である。

 地図を見ていただければわかるだろうが、貴船は京都市内に所在こそしているものの、市街地からかなり隔絶された場所にあり、止めようと思えば時を止めることができる場所だと思う。一方貴船口駅からひっきりなしにバスが来るし、貴船川は鞍馬川と合流したのち、最終的には賀茂川となって三条や四条のような都市部に流れ着く。この加茂川は最終的には淀川に飲み込まれていく、「水は海に向かって流れる」のである。いくらわたしたちが後悔していたとしてもそれに関係なく時は流れていく、しかし時が流れていくおかげで未来が存在すること、その希望を描いた映画だと思う。時が止まりますようにと祈っていたミコトが、ラストシーンで貴船神社の神前に何を祈ったのかは明言されなかったが、たとえその願いが「彼のフランス留学が短くなりますように」だったとしても、何にせよそれが未来への展望であることは間違いないのである。


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