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「思い出の味」がロストテクノロジーになったかもしれない

 同志社大学の隣に「麺家あくた川」というラーメン屋がある。2016年初頭にできたそのラーメン屋は、当時関西では希少だった「家系ラーメン」のお店。オープンから間もなく行列を作るお店になり、私もその列をなす人間の1人となった。当時私は大学2年になろうとしていた。そして私は大学を1年留年したので、ほぼ4年間。一般的な大学生が学部を修了するのと同じ期間、週に約2~3回、この店に通った。

 一時期は「中」のサイズを頼んだ上にごはんのおかわりを2杯することを続け、体重が過去最高の70キロに迫ったこともあった(筆者はやせ形で、高校野球をやっていた頃も体重が70キロに乗ったことがなかったので異例のことであった)。我に返っておかわりをやめたあとも私はひたすらに通い続けた。

 5回のうち4回はひとりで通った。誰かとこの店に行くことは稀なことだった。今となっては土日ひとりで遊ぶことが当たり前になったが、当時このお店に並んだ時間こそがその源流だったのだと最近になって気が付く。大学時代、私は思いのほか、誰かと過ごす時間が多かった。しかし一般的な大学生は、週に3回も30分近く並んでラーメンを食べようとはしないので、必然的にひとりで並ぶに至った。誰かと過ごすことは誰かの時間を頂戴することである。30分を週に3回頂戴すると1時間半になる。講義1回ぶんの時間を、食べたいかどうかわからないラーメンを前に並ぶために消費させられるほど、私は他人の時間を軽んじられなかった。


 本を読んだりTwitterを見たりただ音楽を聴いたり前に並ぶ学生の会話を聴いたり、中でタラタラと食い食べ終わった後もべちゃくちゃ喋っているイベサーの男女を全力で睨めつけたりと様々なことをした。その睨みは必ず、相手には見られないように心掛けた。ひとりで居ながら感情をめいっぱい働かせる基礎をここで育んだようだ。ひとりでいるけれどひとりではない、常に誰かの中に自身が介在せざるを得ないということ。それだけ30分というのは十分な時間だった。

 そんな私の礎を作った場所で提供される家系ラーメンは至高のものであった。そもそも味が良くなければ、講義1回分の時間を差し出すことはない。少し専門的な話にはなるが家系ラーメンとは横浜駅近郊にある「吉村家」というラーメン屋が始めた豚骨醤油めっちゃこってりスープのラーメンである。吉村家には「直系」といわれる系譜(下記リンク先参照)があり、川の源流をたどるような気持ちで食べるのが、本当の家系ラーメンの楽しみ方であることを○○商店や魂〇家のみを食す人間たちに叩き込みたいと5年ほど考えているがそれもやはり人の時間を頂戴することであり気が引けてしまう。こればっかりは作り手にチェーン系での消費よりも本物を食べたほうがおいしいねと思っていただくようがんばっていただくほかない。

 「あくた川」は上記の系譜の「オリジナル」に位置する「武蔵家」の流れを汲むお店である。武蔵家での修行を経た「芥川」さんが京都で開いたこのお店は今や同志社前・立命館前・京大前・神戸は関学前・福岡は九産大前に家系ラーメン屋を全5店舗、京大付近に二郎インスパイア店を1店舗構えている。そして去る2021年12月に、京都寺町に博多豚骨系のお店を1店オープンした。5年前後でここまでの拡大した背景には、賛否あれど、行列を作ることに何ら問題がないほど時間が余っている層――つまり大学生をうまく取り込み行列を生み出し続けていること(都内の酒井製麺使用の家系ラーメン屋や総本山吉村家はとにかく回転が早いが、それらと比較すると回転は圧倒的に遅い)に一因がある。しかしそれは別のお話である。私はあくまで、ここまでの味はなかなか食べられたものではないと思いながら通い続けていたし、現に上京してから行く、源流の武蔵家やそこに近い武道家に行ってもあくた川で得られた満足感は手に入らなかった。家系ラーメンの弱点である「獣臭さ」が極力抑えられ、上品さを兼ね備えたスープ、開店当初より明らかに研究を重ねられ、総本山吉村家に引けを取らないスモークチャーシューなど、まさにここでしか食べられない味を、初代(今出川の店舗の屋号)の店主の方は作り上げていった。

 味そのものについて忘れられないこと。開店から1年くらいの頃だったか、そのころ限定メニューとして、よく「赤武蔵」という名の、辛口家系を出されていて、これがたいへん人気を博していた。当時礼儀も知らない私は、「赤武蔵やっぱり好き?」と聞かれ、これだけおいしいのだからと、レギュラー化しないのか聞いたことがある。初代店主の方が「でもこれはうちのラーメンではないからねえ」と呟いていたその光景。おそらく閉店間際でその日最後の客だったか。店じまいをしながら話をしてくれていた。横断歩道を渡った先から見る、店の看板照明は落としつつも店の中は光っていて、券売機がぽつんと立っている。何故か記憶されている、忘れえぬ光景。

あくた川のラーメン。絶妙なバランス感覚は東京ではなかなか味わえない代物。

 11月、京都に土日限定で帰った。土曜の朝6時の新幹線で品川を出て、日曜の19時の新幹線で帰るというタイトなスケジュールだったのだが、私はその中に、約1年半ぶりとなるあくた川訪店を組み込んだ。そこには変わらず初代の店主の方がいて、私はかつて常連帯制度が適用される人間だったから今もなお適用されてのりがたくさんついてきて、そして変わらず、否ひょっとするとより進化したかもしれないラーメンがそこにはあって、ああ学生時代の味というものが自分にも生まれたのだ、私は上京して1年半が経ったのか、と逡巡していた。相変わらず行列をなしていたし、人気は絶頂なのでつぶれることはない、ここに帰ってくれば、同志社大学今出川キャンパスがあって、この味があって、いつだってあの頃の一人だった自分に戻ることができる。リスポン地点のような場所。そう思いながら麺をすすり、スープを飲み、のりをスープにつけてごはんをくるっと包んで豆板醬とともに食べた。

「瀧本さん、俺、今度できる寺町のお店に移動することになったんだわ、今度帰ったら寺町に来てね」

 そう言われて、「そうですかおめでとうございます頑張ってください、絶対行きます」と言って特に何も気に留めず麵をすすり、帰り際、店主の方と写真を撮った。「社会人になっても帰る場所はあくた川!」と、この写真が後日公式Twitterに投稿されていてもなお私は気に留めず、のんきに「その通りだよなあ」くらいのことを思っていた。

 年始。再び帰省をして、寺町通に新しくできた「燻とん あくた川」を訪れた。初代の店主の方がそこにはいて、「来てくれてありがとう!」と相変わらずの元気さで、注文したラーメンが着丼した。しかしそれは家系ラーメンではなく、博多豚骨だった。この味に関しては正直もう驚きを通り越して茫然自失とするほどのおいしさで、初代の味が研究を重ねて徐々に完成した過程を知っているからこそ、ああこの人たちはまた積み重ねをしたんだと感動した。あくた川の通販に「職人」と書いてあるがそれに相違ないと思った。信じられんくらいうまかったねと、京都に残した友人と(社会人になってから行くあくた川はひとり訪問でないのだ)と言い合い店をあとにし、その日私は満員の自由席で立ちながら、東京への帰路についた。

 ふと眺めるTwitter。初代あくた川のツイートが流れてくるが、当然そこに映るのは違う店主の方(立命館前二代目で店長をされていた方が着任されている)だ。なんか変わったなーくらいに思っていたけれどそれはとんでもない変化だということに気が付く。これって、ロストテクノロジーじゃないのか。

 確かに屋号には初代あくた川を冠し、店はつぶれていない、相変わらず盛況。しかしそこで二代目の方が生み出すスープやラーメンはきっとその方の最高傑作で、私が4年間、ひとりで食べたものではない。そしてそれを作られた方はいま、家系ラーメンではなく博多豚骨ラーメンを作っている。私はどうやら、学生時代の味と言うものを失ってしまったらしい。喪失するにもそこに店があるので喪失にならない。コロナ禍で行きつけの店を失ったかつての大学生たちの阿鼻叫喚をたくさん見てきた。自分には他人事だと思っていたことが静かに起こった。ようやく彼らの気持ちがわかったけれども、店自体は残っているので彼らからするとそれは贅沢なのかもしれない。はっきり言って世間的には何一つ悲しくない、ただただ前向きな形で起こっていく変化を前に、私が抱いた喪失感はあまりに個人的でありすぎる。だからこそ、気づけば気づくほどどうしようもなさが押し寄せる。

 東京で数多くの酒井製麵が卸している家系ラーメン屋(※注1)に足を運び、「おいしいけどなんか違う」と思えたのはいつだってあくた川に行けると思っていたからなのだ。私は初代にこれから足を運んで「おいしいけどなんか違う」と思うのだろうか。燻とんあくた川へ行って元初代店主の方が作る、ありえないほどおいしい博多豚骨ラーメンを前にし、これが家系ラーメンだったならばと、思わなければならないのだろうか。

 「ロストテクノロジー」で検索をかけた。ローマの水道技術やダマスカス鋼、そして日本刀までも、さまざまたいそうなものが出てきた。科学的に再現できないものがそれにあたるらしく、じゃあ今回のケースでいうならば初代の店主の方がもう一度家系ラーメンを作りさえすればそれは一瞬で解決するではないか、と思う。そこから導き出されるのは、何が失われたって、それはお前の学生時代のことだろうということだ。

 初代あくた川の列に並んで、ひとりで並ぶ大学生に過去の自分を重ねたって、当時と同じルーティンでラーメンを食べたって、何をやったって、それらが戻ってくることはないということ。思い出は思い出にすぎず、どれだけ再訪したところでそれは過去の自分の模倣でしかないということ。増えた収入の分失ったものがそれらならば納得がいくだろうということ。

 東京へ戻ったあと、自宅へ向かう総武線快速の窓から東京スカイツリーが顔をのぞかせた。京都タワーと違って、一定のペースで光線が回転を続けていた。スカイツリーは高く、東京の東側で築いた思い出の傍らにさも当たり前の顔をして生えていることが多い。こちらにきて1年半が経って、まるで夢の中の登場人物が入れ替わりを果たすように、スカイツリーを見るだけで再生される思い出がある。鴨川の芝生を見て思い出す過去があり、墨田川のコンクリをみて思い出す過去もある。その思い出はひとりだったりふたりだったりする。歩んできた道が、一言で言いくるめられないほどの量になり始めている。それでもふと思い出すことがある。今日も私は、川の源流をたどるようにして、家系ラーメンを食べている。


※注1…酒井製麺は、酒井製麵側が認めた家系ラーメン屋にしか麺を卸していない。ここから麺を卸されることは店側にとって誇りなので、店の前にここの箱が置かれていることも多い。そしてそれは実力店であることを意味し、店の見分けに活用できる。

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