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言語化すること、共有してもらうこと。

■先日、山形市内において、半年ぶりに「“若年の居場所”合同研修会」を開催した。福島、会津、山形で活動する三つの居場所のスタッフと研修生と、合計10名が参加。久しぶりの再会は、何だかちょっと感動的でさえあった。「人材の過剰消耗」問題の渦中での半年間だ。再び会えたということは、この半年間、誰もつぶれず、リタイアせずに済んだということを意味する。せっかく知り会えた仲間たちだ、できるだけ長く、ともに先を見つめて伴走していきたいと思う。

■さてその合同研修会。企画意図をわたしは、「わたしたちがわたしたちに固有の言葉を獲得し、力をつけ、さらに先に進んでいくために必要な条件をさぐろう」とまとめた。現場での実践に日々を費やしていると、わたしたちはつい近視眼的に、自らの位置取りやその偏りを視界の外に置き忘れてしまう。しかも、置き忘れてしまうのはメタ視点だけではない。わたしたちは、自分のうちに生じた思いや感情たちをも、忙しさを理由に容易に圧殺してしまう。消耗は、そこに起因する。

■だとすれば、過剰な消耗を回避し、消耗してもまた回復するための手立てとは、自らの位置取りや偏向を把握し記述できる枠組みや語彙を獲得することであり、同時にまた、自らの内面に蓄積されゆく膿に光をあて自覚するためのまなざしや言語を獲得することである。さらに言うなら、それぞれが獲得したそれらの言語を、仲間たちのあいだで共有することである。今回の研修会のテーマは、したがってまさに、そうした「言語化とその共有」をねらいとするものだった。

■「言語化とその共有」などというと非常に堅苦しいが、間単に言うとそれは「仲間どうしであれこれいろんなこと――それぞれが何を考え、何を欲し、何に悩んでいるのか等――率直に語り合ってみよう」ということになる。何を今さら、と言われそうだが、そもそもわたしたちは言語によって世界や自己を構築する存在。わたしたちが自らにあてがう語彙や物語しだいで、わたしたちは何者にでも――「日常に辟易する人」にでも「日常を楽しむ人」にでも――なれてしまう。

■何でもありなら、せめて「楽しい物語」を。これがわたしたちの思考法だ。「つらいこと」「苦しいこと」は、「仲間との会話」という共同作業のなかで、新たに語り直すことを通じて、別の何かに変換してしまえばよい。研修会からの帰り道、わたしは自分の中からそれまでの疲れが抜け落ちていることに気づいた。「新しい物語」への変換はしかし、それを聴き届けてくれた仲間たちがいてくれてこそのもの。感謝したい。そしてわたしもいつかその役目を果たそうと思う。

※『ぷらっとほーむ通信』031号(2005年11月号) 所収

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